辻本好子のうちでのこづち

No.046

(会報誌 1998年10月15日号 No.98 掲載)

最後まで患者の希望を支える医療であってほしい

 その女性(ひと)は、話の途中でそっと会場に入って最後列に座り、身じろぎもせず食い入るような視線をずっと私に向けていました。主催者の紹介もあって講演会終了後の1時間、Sさん(49歳)の患者体験をゆっくり聴かせてもらいました。

息子の行く末を案じて悩みは深く

 昨年暮れ、ATL・成人T細胞白血病と診断され「余命、半年」の宣告を受け、4月まで抗がん剤治療で入院。いまは月に一度の検査で「ほぼ安定」ながら、くすりの副作用で体重が10キロほど増え、高血圧に悩まされています。13歳になる息子との二人暮らしで、予定の半年が過ぎて「こうして生きているのは、息子一人残して死ねない最後のガンバリ」と、涙一つ流さず淡々と語る姿に強い母性を感じました。
 実母と実弟、そして息子も検査を受け(+)反応が出ました。この病気は主に母乳によるウイルス感染で、キャリア(保菌者)のごく一部が中年以降に発症する病気です。娘の病気の原因が自分と思い込んでしまった実母との関係がギクシャクしていることにも悩んでいるようです。が、それ以上に、息子の行く末を案ずる不安から、キャリアである事実を「どうしても本人に言えない」ことがさらに大きく、そして、深く彼女の心を捉えているようです。
 発病以来、仲の良かった友達も遠のいて愚痴を聞いてもらえる人もなく、息子のことも「主治医に相談したってしょうがない」と諦めきっている様子でした。私は、彼女の不安を受け止める余裕のない医療現場を目に浮かべながら、自暴自棄のように語る彼女にかける言葉もないまま、ただ頷いているしかありませんでした。

“医療”にできる何かがあるはず

 医療の限界、そして、冷酷なまでの人の死の不条理と不可避性。一切の修飾を取っ払って、運命にほんろうされる姿を初対面の私に晒しているSさん。目の前で「いのち」の叫び声をあげているのに私にはなす術もない。「賢い患者になりましょう!」と、偉そうなことを言った自分を消してしまいたい、そんな申し訳ない気持ちでいっぱいでした。医療への期待も、何一つ希望もないと語るSさんの話を聞くうちに「そんなもんじゃないはず!」という思い。そして、なんとかSさんの希望を最期まで支援する手立てはないものかという葛藤で、ほんとうに切なくなってきました。
 「二度と抗がん剤治療はイヤ」というSさん。医療の現実の向こう側にぶつかって視界が晴れ、いま何を一番大切にすべきかを見極めようとする彼女の心に医学・医療への期待がないのはなぜなのか。医療者が「思いをつなぐメッセージ」をどうしてもっと明確に伝えないのか。もちろん医療に限界はある。でも、治療に限らずできることは何かあるはず。おそらくそれがSさんに伝わっていないだけと、歯軋りするような気持ちでした。
 感情を押し殺した能面のようだったSさんの表情がだんだんに柔らかくなってきて、野球が大好きで、家事も一生懸命に手伝ってくれるという優しい一人息子を自慢するSさんの目に涙がいっぱいたまっていました。“生きること”と“愛すること”の意味を問い続けることが人の一生の作業だとすれば、一人ひとりの「いのち」に関わる医療こそ、その作業を限りなく支え、最後まで希望を実現する手助けであって欲しいと私は思います。患者一人ひとりのそんな願いは、やっぱりわがままで、贅沢で、無理な相談なのでしょうか。
 残された日々を最愛の息子とどう過ごしたいか。誰に遠慮することなくSさんが、そのことを真剣に考えられるようなお手伝いができないものか……。私にできることはと考え、せめてもと毎週手紙を書き、気持ちだけでもつながっていたいというメッセージを送っています。