辻本好子のうちでのこづち

No.171

(会報誌 2009年6月15日号 No.226 掲載)

改めて「社会性」を考える

“叱り方”“叱られ方”

 ここ数年来、医学教育現場を垣間見る機会が増えています。そんなに遠くない将来、老いた病身のわが身を委ねるかもしれない医療者の卵たち。孫とは言わぬまでも、わが子よりはるかに若い世代の思考のあり方ひとつ、想像の域をはるかに超える現代学生気質に触れ、時に深刻なまでに悩まされることも。先日も「人生を壊された」とゼミの教授を惨殺した教え子の事件の報、元学生は自らのコミュニケーション問題に悩んでいたとか。次世代の行き先を照らす大人の役割として、異文化圏の若者たちとどう向き合うべきか。正解のない問いに立ちすくむ思いです。

教授と学生の緊迫したにらみ合い

 某医学系大学で「患者の望むインフォームド・コンセント」をテーマに90分の講義をしたときのこと。講義の間ずっと、最前列の男子学生が帽子をかぶったままでいることが気になっていました。抗がん剤治療の脱毛をカバーといった、止むを得ぬ事情があるわけでもなさそう。服装はまさに“いまどき”、帽子もトータルコーディネートのアイテムとして欠かせないであろう見るからにオシャレなハット。う〜ん、しかし、帽子にもTPOのマナーがあるはず。近世イギリスのジェントルマン教育なら、部屋に入れば取るもの、レディ(おばさんだって)に挨拶するときはもちろん、食事や会話のときには相手に失礼にあたるものとして当然に取るべしと、社会が、大人が、日常と自らの背中を見せて教えたことでしょう。
 教養とは、「こんなことも知らないのは恥ずかしい」という知識の総体。挨拶や言葉遣い、食事のマナーなど、いわば文化でもあります。しかし、現在の日本の男性に帽子をかぶる習慣はなく、次世代にマナーを教えられるはずもない。そうした教養のかけらもないまま、平然とマナー違反をする目の前の学生。しかし稀人である外部講師の私が話を中断して、そばで見ている教授を差し置いてまで彼に注意をするのもはばかられ、最後まで我慢して話を終えました。
 講義終了後、教授が教室のドアの前に立って一人ひとりの学生から「出席カード」を集め、周辺の空気がザワザワと動き始めたそのときです。突然、教授が学生の帽子を取りあげ「失礼だということがわからんのか」「なにするんですか!?」「……」とにらみ合いが始まりました。そして「先生に何の権利があるんですか?」と帽子をかぶっていた例の学生が、教授に食って掛かっていったのです。
 どうやら、教授にいきなり奪われた帽子を取り戻そうとしているらしく、怒りの塊のような形相でにじり寄ろうとする姿が私の目に飛び込んできました。周りの学生たちは息をのんで後ずさりしながら、二人を遠巻きに傍観しています。講義室の空間に一気に緊迫が走り、反対側のドアの前で教授を待っていた私も声を失ったまま、ただ眺めているしかありませんでした。
 予期せぬ学生の反抗的な態度に教授の怒りが増幅したのか、はたまたその学生も多くの仲間が見ているなかで引っ込みがつかなくなったのか、しばらくにらみ合っていましたが、それ以上のやりとりには発展しませんでした。帽子を奪い返すことを諦めたのか、学生はふて腐れるようにきびすを返して教室から出て行こうとしました。すると教授が学生の背中にひとこと、「あとから研究室に取りに来い!」。張り詰めていた緊迫感が緩み、殴り合いにならなかったことにホッと胸をなでおろしたものの、そのあと教授と一緒に研究室に戻るわずかな時間の重〜い空気に私まで息の詰まる思いでした。

社交性と社会性が問われるコミュニケーション

 果たして、その後、例の学生が教授の研究室を訪れて帽子を返してもらったのかどうか……確認はしていませんが、目の前で繰り広げられた数分間の出来事が、その後もずっと私の心に重くのしかかっています。あれこれと自問自答するなかで、最初に気づいた私がさりげなく注意していれば、あんな大事にはならなかったかもしれない。教授もいきなり帽子を奪い取るような乱暴なやりかたでなく、せめてもう少し穏やかな諭し方もあったのではないだろうか。さらには、少なくとも師と仰ぐはずの教授から注意されたときの態度として、大学生のあまりの幼さ……。しかしその一方で、大学生の生活態度まで教授が指導する必要はない、学生は大人として向き合うべきではないかという思いもあり、常識とは、社会性とは……と、まさに正解のない問題にいまもあれこれ悩んでいます。
 コミュニケーションはいわば社交性と社会性が問われる問題。たまたま読んだ本に、社会性について「自分と社会との関係性についての考え方の質と深さの問題である」と書かれていました。たかが帽子、されど帽子、さて、あなたはこの問題、どのようにお考えですか?
 ただ、私に突きつけられた問題はもうひとつ、つまり叱り方と叱られ方についでです。
 周辺のいわゆる団塊世代の親たちを見て思うのは、若かりし頃に親や社会から古い価値観を押しつけられたことに強く反発し批判してきた世代。その反動もあってか自分の子どもを上手く叱ることができぬまま、子どもの自主性を重んずるなどと美辞麗句を並べて「友達親子」の仲良しごっこを演じてきた節があります。
 「正しい叱り方」「正しい叱られ方」があるのかどうかはわかりませんが、医学系の学生の最近の傾向で<遅刻、おしゃべり、居眠り>は当たり前。それを見て見ぬ振りの教師たち。なぜなら授業料を払う学生が「客体」として、行儀の悪い自らの姿勢はさておいて、教師の講義内容や姿勢を“評価”する時代。なかには悪い評価をされたくない気持ちから、目に余ることも注意しない教師が増えているとかいないとか。
 『患者と医療者のコミュニケーション講座』と名を変えたCOMLの取り組みでも、叱り方、叱られ方を考える必要があるかもしれませんネ。