辻本好子のうちでのこづち
No.100
(会報誌 2003年7月15日号 No.155 掲載)
私と乳がん⑭
トマトラーメンと大阪城
辻本 淳也
2002年4月8日の夜、お尻のポケットに入れていた僕の携帯電話が鳴った。つまみ出して見ると、画面には母の名前が出ていた。いつものように無意識のうちに背筋を伸ばし、明るく緊張感のない次男坊の声で返答すると、母は久しぶりの会話であったにも関わらず挨拶もそこそこに、まるで芝居がかったように緊迫した、けれども妙に落ち着いた声で「驚かないで聞いて欲しいの」と切り出した。この台詞は、今となっては笑い種になっているが、その時は、ただならぬ母の雰囲気に体温が下がった。
そっとつばを飲み込み、ある程度の覚悟を決めてから続きを促すと、母はまるで業務連絡のような口調で、乳がんの手術を受けるのでいつからいつまでの期間は僕に仕事を休んで大阪に居て欲しい、といった内容を喋り終わってしまった。それは、恐らくはCOMLの山口育子さんと僕の兄に電話報告をした後であったために、僕に何をどういう順番で話すかをすでに決めた上での口調であり、奇妙なまでの厳しさがあった。ある程度の覚悟は何の役にも立たなかった。
「……実は乳がんの手術を受けることになりました」という決定的で率直な母の一言目に、僕は足元がすうっと低くなるような感覚を憶えた。しかし、母の厳しい口調には、自分の運命を受け入れた断固とした覚悟と『お願いだからあなたがオロオロしないで』というメッセージが含まれていることに気づき、僕はあらためてグラグラしていた両足を踏ん張り「でも、まさかまだ死なないでしょ。手術はいつって?もういっぺん言ってよ」と聞きなおすことができた。そして、その電話から約2週間後、4月23日の朝に僕は名古屋を発ち、正午きっかりに母の住むマンションのインターホンを押した。
玄関を開けた母の一言目は「エライエライ、時間通りね」であった。僕が(母の腕時計では)遅刻常習犯だからだ。今回ばかりは遅刻することなど考えてもいなかった僕は、その明るい母の一言目に少し面食らった。既に出かける——つまり入院する——準備が完璧に整っていた母は「もうお腹ぺこぺこ、この前話した美味しいラーメン食べに行きましょう。ハイ鞄もって」と、いつもどおりてきぱきと言った。僕に渡された出張用の鞄には本がいっぱい入っていた。
ラーメン屋までの道中、母は僕の半歩先を歩きながらこの先の入院計画を朗らかに語った。自分の運命を嘆く様子は一切なく、僕は、その無理のない前向きな姿勢と態度にすっかり安心すると同時に、母の気丈さに感謝した。そして、母と僕は汗をかきながらニンニクの効いた美味しいトマトラーメンを平らげた。
食べ終わって店を出た母は、「今から入院するのに、アタシまでニンニク臭かったらドクターに怒られるわね」と笑った。先ほど「がんはもう私の持ち物」と宣言した母の、曇りも翳りも力みもないその笑顔を見た時、僕の心のなかにどっしりとした要塞が出来あがったように感じた。それは、その数十分後に入室した母の病室から見えた大阪城のように立派であった。僕は心のなかの要塞をなんとなく大阪城に見立て『心配すまい、母はまだまだ大丈夫』と心のなかで呟いた。
入室して、数人のドクターとの挨拶を済ませた母は、入院前の頑固な宣言どおり着替えもせず、もちろんベッドには一瞥もくれることなく傍らのソファに座り、鞄から本を引っ張り出し読書用のめがねをかけると、ぼくを追い払うかのように「散歩でもしてきたら?」と言った。『どこも痛くも痒くもないのに横になんてなれません、病人扱いしないでください』というメッセージを受け取った僕は苦笑いをして、しばらく病院内を歩き回った。
その日の夕方、COMLでの業務を終えた山口育子さんが不敵な笑みを浮かべて母の病室へ登場した。育子さんの「あれ?誰が患者か判りませんねえ」の一言に、僕たち3人は患者不在のベッドをダシに大笑いした。そして、あの立派な大阪城がライトアップされた夜分、母を病室に残して解散し、僕は母のマンションに帰り翌朝遅くまでぐっすりと眠った。
手術はその翌々日であった。当日の明け方から布団の中で目が覚めた僕は、起床するまでの間にさまざまな夢をみた。それらに不吉な兆しは一切なく、心の中の大阪城は健在であった。しかし、母の手術終了予定時間がとうに過ぎた頃、こわばった表情の育子さんから「郭清」という言葉を聞き、その意味を理解した瞬間、心の中の大阪城は「不安心配困惑」といったモヤのような不透明な感情に包まれて、その姿がハッキリしなくなってしまった。
「リンパ節郭清」という言葉が、すぐさま命を失うという意味ではないことは解っていたが、予想もしていなかった事態にしばらく何も言えないでいると、名古屋から夫婦で来ていた兄が「外にタバコ行こっか?」と言ってくれた。長男と次男は病院の外にある灰皿を囲んで世間話をした。世間話をすることでモヤを吹き飛ばすことはできなかったが、少なくとも悲観することを免れることができた。もし、「手術してハイおしまい」とならなかった事態を嘆き悲しんだり、ましてや母に同情なぞ露骨にしたりしようものなら、必ずや母にスリッパでひっぱたかれるだろう、と思えたのだ。そして、幾つになっても、またどんな状況下においても、母にひっぱたかれた時の記憶は鮮明に蘇ることを知った。