辻本好子のうちでのこづち
No.091
(会報誌 2002年10月15日号 No.146 掲載)
私と乳がん⑤
入院 ——手術前の2日間——
4月23日。遅刻常習犯の次男が、この日ばかりは約束通りに名古屋から到着して付添い役。
13:00。入院受付で手続きをしていた次男が、見知らぬ“大阪のオバちゃん”から「兄ちゃん、あんたが入院かいな?」と声をかけられ、機関銃のごとく入院体験をまくし立てられている。その圧倒的な“なにわコミュニケーション”に思いっきり度肝を抜かれている次男を眺めながら、私はニヤニヤ。そして、9階の病室へ。大阪城が目の前に見える1日7000円の個室。静かな環境を“買う選択”に迷いはありませんでした。
荷物を整理しているところに担当ナースがやってきて、何枚かの書類を手に入院時の説明。そして、入れ替わりのように「私が麻酔を担当するNです」と、こんどは若い麻酔医からの事前説明。何やら慌しいなかで、徐々に手術の実感が迫ってきました。ただ、このときもパジャマに着替えることも、ベッドに横になる気にもなれず、私服のまま。「病人」になりたくないという最後のあらがいなのか、<無駄な抵抗をしている>と自分でもちょっとおかしくなりました。
入院の準備で、一番最初に用意したのが3冊の文庫本。予定としては、手術前までに夏目漱石の『こころ』を、そして、術後にドストエフスキーの『白痴』(上・下)を読破する計画。贅沢ともいえるほどの時間がたっぷり与えられるのだから、無為に過ごす手はない。私服のまま椅子に座って文庫本を読みふけっている私に、初めて訪室したナースが「患者さんは?」。付き添いの家族とでも思ったらしく、訳を話すと「余裕ですね」。今思えば、決して意識していたわけではないけれど、何かに没頭することで手術の不安を解消させようとしていたのかもしれません。
ようやく21:30過ぎにパジャマに着替える気になって、寝る準備を始めたところへ主治医のMさんが駆け込むように「遅くなってスミマセン」。こんな時間まで——、多少なりとも研修医の苛酷な労働環境を知っているだけに、半ば同情したくなるような気持ちで迎え、初めてのご対面。とてもキビキビとした若い女医さんで、一目で好感を覚えました。3年目のレジデント(研修を終えたあと訓練を受けている3〜5年目のドクター)。外科医になりたくて、他科を回らず外科のみのストレート研修を選んでいるとのこと。外来担当のSドクターが彼女の指導医にあたり、手術は二人で担当。この夜はいわば顔見世のよう、お互いを理解するためのほんの入り口の挨拶だけで終わりました。
入院2日目。10:30から入浴、その前にナースから右脇下の毛剃りを受けました。そして、13:00にRI室(ラジオアイソトープ)で“しこり”に放射線同位元素の薬液を注入し、1時間後にCT撮影。これが術前の説明で、私が選択したセンチネルリンパ節検査の準備作業。つまり、センチネルリンパ節を特定するのです。原発巣のがん細胞が最初に転移するのがセンチネルリンパ節なので、まず最初に切除して、その切片を顕微鏡で調べ、転移しているかどうかを確認する。もし転移が確認されたら、ほかのリンパ節にも転移している可能性が大きいということで、リンパ節郭清(病巣を取り除くこと)という手術になります。そうなれば、しこりだけをくり抜く、いわゆる乳房温存術から一気に拡大手術となるわけで、患者としては、ただただ転移していないことを祈るしかありません。(なお、センチネルリンパ節生検の有効性には、当然ながら諸説があるので、十分なインフォームド・コンセントで選択する必要があります。)
14:30 部長回診。大勢の研修医を従えて、ノックもせずに、いきなり「自分で見つけたん?」。「ハイ」と応えている途中に、もう部長はドアに向かっている。後から遅れて駆けつけてくる研修医には、何の会話かもわからない状況。たしかに、術前患者の診察は必要がないのかもしれないけれど、研修医たちがこうした指導医の後ろ姿を学んでいるのかと思うとゾッとしました。30年前のベストセラー『白い巨塔』(山崎豊子)が描いた大名行列ほど大げさではないにしても、時代錯誤、旧態依然、嗚呼、やっぱり何も変わっていないんだなあ〜。
15:00 薬剤師による服薬指導。これが350点(1週間につき月4回まで)業務、つまり医療費3500円也。しかし、まったく薬も飲んでいなければ、点滴があるわけでもない状況では、とくに質問することもなく、ほとんど会話にならない。当の薬剤師さんも何をしゃべっていいのかドギマギ。ようは薬の不安があれば相談ができ、薬を管理する役割の存在の確認をしたにすぎませんでした。
病院食については、朝食は一汁一菜でちょっと味気ないものの、昼と夜はトレイの半分がホカホカ状態で、半分は青菜のおしたしなど冷えた料理。野菜も豊富で彩りもよく、入院中唯一の楽しみになりそうと大いに期待が持てました。
19:30 手術説明。次男が同席して、SドクターとMドクターから30分ほど、詳しく、わかりやすい、丁寧な説明を受けました。手術は明日、午後2時からスタート。2時間ほどの予定とのこと。迷いのない状況で、とくに質問や確認事項もなく、十分に納得して同意書にサイン。こうして術前前夜の小さな儀式が終了しました。
ライトアップされた大阪城が、やけに美しい。いったい何時までライトアップされているのだろう。入院中に、ライトが消える瞬間を絶対に見届けてやろう心に決め、『こころ』はほんの数ページ残ってしまったけれど、明日の午前中に読むことにしよう。今日はしっかり寝ておくために、就寝時間の規則通りにオ・ヤ・ス・ミ・ナ・サ・イ。
21:00 安定剤を服用して就寝。