辻本好子のうちでのこづち

No.090

(会報誌 2002年9月15日号 No.145 掲載)

私と乳がん④

悪性の診断 手術を決心して

 コミュニケーションよりネゴシエーション(交渉)というべきか——。セカンドオピニオンを求めた10日後。指定されたクリニックで撮ったMRIの写真を携えての予約受診。ついに、組織診断による最終的な結果説明を受ける日がきました。
 外科外来待合には、その日も多くの患者が諦めきった表情で長い待ち時間の流れに身をゆだね、ただただ静かにじっと耐えています。予約であっても3時間以上は待たなければなりません。乳腺外来の前に、夫婦、姉妹、母子とおぼしきカップル(?)がヒソヒソと小声で患者らしき女性に声をかけています。ひょっとすると私と同様、「神のご託宣」を待っているのかもしれない。でも私は一人。ともかく最初のドクターの言葉は、私は一人だけで受け止めたいと思ったから——。
 ようやく名前が呼ばれて診察室へ入ると、いきなりシャーカステンに映し出されたカラフルな写真が目に飛び込んできました。組織の病理標本の写真です。ドクターは赤い点々のいくつかを示しながら「あきらかに悪性です」。どんなに長々と説明されるより一目瞭然、視覚に訴えてくる「私の乳がん」は言葉以上にリアルな説得力を秘めていました。しこりの大きさは触診で16×15ミリ、MRIでは11×14ミリほど。「病期としてはI期の早期がん。温存手術もほぼ可能」といわれ、その場で手術を受ける決心をしました。
 ところがドクターは、当然に家族を伴っているものと思っているらしく「では検査結果、病状、手術についての説明をしますので、ご家族に入ってもらってください」。一人で受診していること、息子は遠方であること、結果が悪性であればすぐに駆けつける医療に詳しいベストパートナーがいることなどを説明して、午後に「もう一度、説明の時間をいただきたい」とお願いをして、ドクターの了解を得ることができました。すぐに事務所の山口育子に電話をして「予定通り、病院に駆けつけてもらうことになってしまった」ことを伝えました。
 彼女の到着を待つ間に、二人の息子のケイタイに電話して「がん告知」。それぞれの個性がにじみ出た、それぞれの優しいひとことに思わずホロリ。「心配しなくっても大丈夫! ただ、手術のときには多少の迷惑をかけることにもなるし、助けて欲しいこともあるだろうから、それは私から遠慮なく言う。だから、先にあれこれ考えるな!」と、知らず知らず、いつもの肝っ玉母さんを装っている自分に気づき、何もこんなときまで——と切なくなりました。
 飛んできてくれた山口と、再度二人で受けた説明は、最終確定診断と手術について。とくに乳がん手術の新しい流れである「センチネルリンパ節生検」という術中転移診断法。不要なリンパ節の郭清(病変部分を取り除くこと)や二次的な手術を回避するためにも重要であると勧められました。もちろん検査方法やリスクについての説明もありましたが、チラチラ飛び交う専門用語に、事前準備のない状況では十分理解できませんでした。その場ですべてを理解することは無理と諦め、インターネット検索をして「わからないことがあったら、質問してもいいか」と確認して了解を取りつけました。そして、手術については、二人主治医制であること。主治医は、研修医あるいはレジデントであること。また、詳しいタイムスケジュール、麻酔、手術の危険などについては、入院後のインフォームド・コンセントとすることなど、30分ほどの説明で終わりました。
 じつはこの10日ほどの間に、元スチュワーデスの古い友人が自死したという突然の知らせ、さらにはNPO法人理事の井上平三氏の訃報という哀しい知らせが届いていたことで、私の気持ちは目一杯、落ち込んでいました。そんな最中の確定診断です。それなりに心の準備は十分していたつもりでも、やはり正直、それなりのショックでした。
 しかし哀しいかな、サービス精神だけで生きているような私。事務所への帰り道、山口にさえそのショックを悟られまい、可哀想と思ってもらいたくない、そんなツッパリで自分の気持ちを誤魔化すことに精一杯。移動中の会話はすべて、今後の仕事の段取りをどうつけるか。山口の存在は私の心を映す鏡そのもの。ただの一度も目を合わそうとせず、心をさらけ出せないでいる勝気な自分があわれで、心配をしてくれている山口に対して、このときばかりは、ほんとうに申しわけないという殊勝な気持ちで胸が押しつぶされそうでした。
 心ひそかに「そうあって欲しい」と勝手に決めていた23日入院、25日手術の予定でいえば、残されているのは5日だけ。翌18日は大阪府下の病院の倫理委員会。19日に事務所で当面の打ち合わせができたとして、20日は埼玉での講演で東京泊まり。21日に弘前へ移動して、22日の講演後、夕方の帰阪。その翌日が入院——となるわけで、意味もなく気持ちは焦るばかり。仕事のことは、文字通り「大船に乗った気分」でいられるとしても、入院支度のこまごまから、大きく歳の離れた老姉二人への連絡をどうするか。さらには新聞配達の中止連絡から、もしものときに息子たちが困らない程度のあれやこれやの指示も書いておかなければ——。一人で生きる人生の選択をした以上、どんなことがあっても引き受けるしかない。洗面所の鏡に映る自分に「オイオイ、好子さん、泣いている場合じゃないんだゾ!」と自らを叱咤激励するしかありません。
 それからの5日間。仕事をしているときは、すべてを忘れることができます。ただ、早咲きの弘前城の桜は、今年はいつになくセンチな気分で眺めてしまいました。
 そして、いよいよ入院です。