辻本好子のうちでのこづち

No.092

(会報誌 2002年11月15日号 No.147 掲載)

私と乳がん⑥

手術当日

 手術当日の朝6:30。「今日、担当させていただきますNと申します」と、いかにも“しっかり者”といった感じのナースが訪室。「どうか、よろしくお願いします」と挨拶して、いよいよと気持ちが引き締まる思い。点滴が始まるのは10:00〜11:00で、手術は14:00スタートの予定とのこと。「それまで、きちっと絶飲食を守ってくださいネ」と厳しいお達し。洗顔を済ませたあと、なんとも手持ち無沙汰のままテレビのスイッチを入れると、どの局も賑やかに、午後に予定されている辻元清美衆議院議員の証人喚問のニュースを報じていました。
 7:30に主治医があたふたとやってきて、明るい表情で「よく眠れた? 今日は頑張りましょう」と爽やかに激励メッセージを届けてくれました。う〜ん、私は何を頑張ればいいのかしら? なんて、ちょっぴり皮肉っぽく思ったりもしたけれど、口にしてもしようがない。ニッコリ笑って「よろしくお願いします」と挨拶。しかし、それにしても、何とも落ち着かない気分。
 そのうち、廊下から朝食を運ぶ小さな喧騒が聞こえてくるのに、今朝の私はおいてきぼり。なんとも取り残された惨めな気分です。しかし、今日ばかりは、すねてみたってしょうがない。さあ、さあ、残りの『こころ』を読んでしまおうと気持ちを切り替えたところに「愛」が届きました。
 COMLの仲間でもあるこの病院に勤務するベテランナースが、入院した日からずっと勤務前に新聞とペットボトルを差し入れてくれていました。穏やかに、優しい笑顔で「今日はとっても気持ちの良い朝ですヨ。いよいよ、ですネ」というさりげない一言。まるで魔法にかかったみたいに、すう〜っと気持ちが落ち着きました。
 8:20「素晴らしいですネ、読書とは——」。ベッドに横になっている必要はない、とナースに確認したうえで椅子に掛け、点滴が始まるまでに読み終えようと集中していた私の背中で、病棟主治医の明るく元気な声が響きました。すでに昨夜、十分過ぎるほど術前説明をしっかりと受けているだけに、いまさら確認したいことは何もありません。だからかもしれませんが、さりげない日常的なこんな声がけが、かえって気持ちを穏やかにしてくれるよう。いまさら緊張を強いるような言葉掛けよりも、何倍も励まされるような気持ちになれたのですから不思議です。
 『こころ』は、9:00ちょっと前に読了。さあ、とりあえず、これで思い残すことはないゾ(?)と、妙に晴れやかな気分になりました。

 9:40 ピンクのビニールエプロン姿のナースが「10:00に点滴を始めますので、ヨロシク」。点滴が始まったら“ベッドの人”になる覚悟はしていたものの、それでも——と思って確認したら、ナースは「別に、いいですヨォ〜」。そうか、そうか、それなら、術後は嫌でも病人にならざるを得ないのだから、せめて、それまでの抵抗と、半ば面白がるような気持ちで、結局、手術室に歩いて行くまで椅子に座ったまま過ごしてしまいました。
 多分、そのとき、無意識ではありましたが、かなり突っ張った、肩肘張ったような気分だったんだと思います。いま、こうして、冷静になって考えてみると、やはり術前は静かに休んで体調を整えることが必要なのでしょう。となれば、ちゃんとベッドで横になって点滴を受けたほうがよかったのかもしれないと、深く反省をしています。
 前面がはだけやすいネグリジェに着替えるようにといわれて、ついに点滴が始まりました。手術に立ち会うために駆けつけた長男夫婦と次男坊、そして、午後の仕事をほかのスタッフに頼んで飛んできてくれた山口を交えてワイワイ、ガヤガヤ。狭くて殺風景な病室は、すっかり社交場と化してしまいました。そうこうするうちに安定剤の服用の指示があって、いよいよ13:50.点滴をぶら下げたまま、一同打ち揃ってエレベーターで手術室に移動することになりました。
 手術室の前で「それじゃあ、行ってきま〜す」と元気に別れ(?)を告げてドアを開けると、そこはさながら戦場のよう。さすがに、一気に緊張感に襲われました。誰が誰やらわからぬような、大きなマスクをつけたドクターやナースが、大勢忙しそうにあちこち行き交っています。なんとも表現しがたい、ある種、独特な雰囲気の漂う喧騒の中をナースに案内されて、ビニール張りの狭いベッドに横になりました。すると、いきなり、大きなマスクのナースに身ぐるみはがれ、生まれたままのからだの上にシーツのような布が掛けられました。
 と、そこへ、これまた、まったく表情の見えないほど大きなマスクの男性が、私の頭上から覗き込みました。わずかに見える、その目に見覚えがありました。<ああ、入院した翌日に部屋を訪れてくれた、あの若い麻酔医だ!>と思った瞬間、旧知の友にめぐり合えたような、救われるような気持ちになりました。
 「では、麻酔を始めます」「はい、ヨロシクお願いします」という会話を最後に、その後、何をされているのかまったくわからないまま、私は静かな静かな、そして、深い深い眠りに引き込まれてゆきました。