辻本好子のうちでのこづち

No.019

(会報誌 1996年7月15日号 No.71 掲載)

利用者が主役の在宅医療を

 案の定、介護保険法案は秋の国会に先送り。もちろん国民の十分な理解や納得がないまま突っ走られては困りますが、他人事でなく身近な「いのち」の問題であることに気づいた世論が、ようやく盛りあがろうとしてきた矢先。選挙を意識した党利党略で政治のかけひきに利用し、まるで自分たちの“もちもの”のように扱う政府だけに任せてはおけません。どういう介護を受けたいかは、やっぱり私たち自身の問題ですもの。

在宅医療に起こりつつある不協和音

 京都・京北病院の安楽死問題をはじめ、乳首返せ!と訴えた女優、そして忖度(家族の意思による決定)問題が「本人の文書による意思」と修正された臓器移植法案など。ようやくにして医療現場における本人の意思尊重、いわゆる自己決定権が一気に本流となって勢いを増そうとしています。ところで厚生省の発表によれば、訪問看護の利用者が倍増(前年比)。現在、訪問看護ステーションは1カ月67カ所の割で増加の一途をたどり、慢性的なマンパワー不足の対策も着々と進められているようです。「家で死にたい」という患者本人の意思を尊重するという旗印のもとで、今後ますます広がるであろう家庭のなかの医療。その現場では、すでに旧態依然の医療側の一方的な押しつけなど、上下の人間関係におかれた悲喜こもごもの新たな問題が浮上しています。
 在宅医療は文字通り、ドクターやナース・保健師などが自宅を訪れて、訪問看護や介護指導、服薬管理などを行います。2年前からは健康保険も利用できます。ただ病院と違って、利用者である患者側の極めつけのプライバシーの領域に赤の他人を招き入れるだけに、患者本人だけでなく家族にとっても余分な心配や緊張が強いられ、さまざまな不協和音も避けられないようです。じつはCOMLにも、こうした介護の必要なお年寄りを抱えた家族からの悲鳴に近い相談が届いています。
 家庭の事情など一切お構いなしで、約束の訪問時間を守らず自分の都合を優先させる理学療法士。よもやま話でわずかな症状を語れば、すぐに新たな薬を処方するお医者さん。複雑な家族関係に興味津々の保健師さんなど。「わざわざ来ていただけるだけでも、ありかたいと思わなくてはいけないのでしょうが……」と不平や不満を訴えながらも、へりくだった気持ちが捨て切れない患者特有の遠慮という名の美意識。たしかにスムーズなコミュニケーションには大切なことかもしれませんが、在宅医療においてもやっぱり主権在民、あくまでも私たち“利用者”が主役のはずです。

「質」を求め、選ぶ目を

 早くから在宅医療に取り組んできた医療者らは一様に情熱的で、患者主体の医療を目指すなかで病院医療の限界を察知し、自らの役割を在宅医療に見出した先駆者。自らの医療姿勢に確かな「質の高さ」をつねに厳しく求め、誇りを持っていました。ところが在宅医療に「量」が求められ、ボランティア精神だけでは支えきれなくなると同時に、明らかな質の低下が目立ってきたように思います。
 在宅医療における医療側の押しきせを、最小限に食い止めるためには何か必要か。介護保険問題など行政サイドの緊急課題がさらに混迷する一方で、利用者である私たちも安穏としていていいはずはありません。何よりも「選ぶ目」を養わねばなりませんし、ときには「ノー」と言える意思能力と主体性を早急に身につけないと、またまた文句を言うだけの患者になってしまいそうですね。