辻本好子のうちでのこづち
No.138
(会報誌 2006年9月15日号 No.193 掲載)
私と乳がん(52)
オーストラリア旅行の最大の楽しみ—ロスとの出逢い—
次男のフラットメイト
西オーストラリアの州都・パースに到着した日の昼食は、息子の親友、元同居人でもあるロス・マクマホンの手料理をご馳走になることになっていました。次男の元同居人、つまり現地の言葉で言う「フラットメイト」だったロスは、高度なテクニックと資格を持ったクラシックギターの教師です。しかし、なぜかいつも仕事に困っているという、決して裕福ではない独身男性です。
オーストラリアにはフラットシェアという合理的なシステムがあります。借りたアパートに「空きベッドルームがある」と同居人を募るシステムで、最近は日本でも若い人たちの間で流行っている生活様式のようです。地元新聞でロスの出した募集記事を見つけた息子が電話をしたのがそもそもの出逢い。ところがロスは最初、「僕は女の子と住みたいんだ!」とけんもほろろ。次男も次男で、その後もしつこく電話をして、そのうちに「それなら一度遊びに来い」という話になって意気投合したのだとか。息子が趣味で続けているギターの話ですっかり盛りあがり、ちょっぴり大げさにミュージシャンと自己紹介したことが功を奏したと、あとで笑って聞かせてくれました。
ロスの家は街の中心から車で15分ほど走った郊外の閑静な住宅地、二階建ての赤レンガ造りの集合住宅(現地では「フラット」)。8軒がL字型に並び、中庭を共有するアパート方式の2階部分の2LDKです。たしかに部屋の作りが広いとはいえ、18歳も年上のロスと二人、文字通り一つ屋根の下で過ごした10ヵ月間。語学を学びながら生活者としてどっぷり異文化に身を置いた当時20歳の息子にとって、さまざまな葛藤もあったこの10ヵ月間の思い出は生涯忘れられない大切な宝物。ロスとの再会もさることながら、懐かしい我が家に帰るような気分なのでしょう。子どものようにはしゃぐ横顔を見ながら、幼い頃の無邪気な彼を思い起こしていました。
もちろん私にとっても息子がお世話になった“下宿のおじさん”に会うわけですから、まずは「その節は息子が大変お世話になりました」とお礼を言わなくちゃぁ……と胸ワクワク。今回の旅でもっとも楽しみにしていた“出逢い”です。
温かい出逢い
タクシーでロス宅に向かう途中、「ロスヘの手土産に彼の好きなビールを買っていく」とドライブスルーの酒屋に立ち寄りました。タクシーを降りて、なにやら店員と立ち話をしている息子の後ろ姿を眺めながら、異国暮らしを経験したたくましさのようなものを感じました。勝手知った道案内人にすっかり身をゆだね、タクシーは未知の美しい街をひた走り、緑豊かな住宅街の一角に到着しました。
ロスのアパートに着いて、ガレージに車がないことを確かめると「きっと買い物に行ってるんだヨ」。そのときすでに腹ペコ状態だった私は、内心<エッ、ひょっとして今から作るって言うんじじゃないでしょうネ>と急に不安な気持ちに襲われました。しかし、<いやいや、ここは異文化圏、日常の私の“方式”は忘れなくちゃあ>と自分に言い聞かせました。しばらく辺りを散歩して戻ると、案の定、昼食の食材の買い出しに出掛けていたロスが、両手大きく広げて迎えてくれました。
レスラーのような厚い胸板、ランニングシャツに半ズボンというラフないでたち、目深にかぶった野球帽の奥からこぼれるような笑顔をのぞかせて息子と熱い抱擁(ハグ)。形式ばった挨拶をする間もなく、私までしっかりとハグされてしまいました。早口のオージーイングリッシュ、いったい何をしやべっているのかまったく理解できない私。放り出されたような気分ながら、あまりに嬉しそうな二人を眺めているだけで目頭が熱くなってしまいました。
豪快な“ロスチリ”料理のもてなし
ひとしきり再会の喜びを語り合ったあと、慣れた足取りで階段を上る息子にドアを開けて通された入り口はいきなり台所。ピカピカに光るシンクやガスレンジ、見事なまでに手入れの行き届いた食器棚が私の視界に飛び込んできました。台所の奥に広がるリビングルームには風が渡り、セピア色のレースのカーテンが静かにゆれていました。まるでグラビア雑誌から抜け出たような、とても中年やもめの一人暮らしとは思えない素敵な部屋でした。
まずはビールで乾杯、そのあと私一人部屋に置かれ、クラシックギターのCDが流れる部屋のソファで空腹を抱えながら、それでもにこやかに昼食の出来上がるのをひたすら待っていました。ロスと息子はキッチンに並んで、それは楽しそうに会話を弾ませ、手際よく料理を分担しています。きっと6年前もこんなふうに生活を分け合っていたんだろうなぁ……と思いをはせ、空腹に耐えながら未知なる息子に出会う楽しさを味わっていました。
「ロスが得意料理でもてなしてくれる」と聞いたときからひそかに、豪快な男の料理がテーブル一杯に並ぶ光景を期待していた私。「さあ、できたヨ!」の声に振り向くと、ロスがアイロンでピシッと糊づけしたラベンダー色のテーブルクロスを広げています。そこに運ばれてきた見事な彩りの“ロスチリ”は、まさにワンプレートの一人一皿。<エッ、これだけなの?>と思ったものの哀しいかな言葉にならず、ただただニッコリ。言葉が通じないことが関係を円滑にしてくれることもある……ということを学びました。
息子から何度も聞かされていた“ロスチリ”とは、ひき肉に市販のチリソース、そして、安価で貴重な蛋白源というキドニービーンズ(腎臓のような形をした缶詰入りの豆)と握りつぶしたトマトを混ぜ合わせ、コーンチップスをトッピングして皿に盛り、チーズをまぶしてオーブンで焼いた一皿。たしかに、なんとも豪快な男の簡単料理です。「この豆を毎日食べてると、オナラが止まらなくなるんだよナ」「そうそう、空を飛べそうなくらいにネ」と、久しぶりに再会した二人のはしゃぎぶりは、さらにヒートアップしていました。
※これは2003年の出来事です。