辻本好子のうちでのこづち
No.011
(会報誌 1995年9月15日号 No.61 掲載)
看護の学術集会で患者の声を代弁
7月25、26日、札幌で第21回日本看護研究会学術集会が開かれ、「受け手に開かれた医療を保証するには」をテーマとするシンポジウムで患者の立場としての発言の機会をいただきました。ナイチンゲール研究家や病院長、文化人類学者らにまじって、まずCOMLの活動を紹介。つぎに患者や家族からの電話で届くなまの声、患者塾などで交わされる看護への期待などを代弁しました。
ナースは“仲介者”でなく“支援者・同伴者”に
両日の参加者は延べ1000人。シンポジウム会場を埋めた500人余のナースは、全国各地で続々と新設されている看護大学の教育者や臨床の指導的立場の方々。その中でCOMLの存在を知り、姿勢を理解し、それなりの共感を抱いてくれるナースはほんのわずか。患者の立場を名乗って壇上に立つ私に向けられる眼差しのほとんどは、当初から敵対感情に似たある種の“思い込み”が見え隠れしているように思えてなりませんでした。
わずか20分の持ち時間で「どうすれば真意が伝わるか?」と、不安ばかりがつきまといました。山ほどの「伝えたい思い」のどれ一つをも捨て切れないまま、とくにインフォームド・コンセントについては「十分な説明で患者の同意を得ることは医療者側の責務。患者はその説明を理解し、治療法を自分で選ぶ責務が伴う“双方の課題”。医療は患者と医療者の横並びの“共同作業”と定義したうえで、ナースには仲介者でなく患者が医療の主人公になれる勇気を与えてくれる“支援者”であり、ときには闘病につきあってくれる“同伴者”であってほしい」という思いを伝えました。
私の話が終わった瞬間、会場は不気味なほどシーンと静まりかえっていました。4人のパネリストの発言が一巡し、会場からの質疑応答が始まるやいなや、真っ先に厳しい質問が私に向けられました。質問者は看護大学の教授で、まず最初に「仲介者になってくれるなという言葉は非常にショック」だったという感想が述べられました。そして、自分の意思すらはっきり持っていない患者が多い現状を述べた後、だからこそ「とりあえずはナースが仲介者になるしかない」。そして「ナースが仲介者で、なぜ悪い?」と、質問というよりむしろ強い反論の言葉が投げかけられました。
調和のために本音の議論を
もちろん、ナースが患者の“真の仲介者”たり得るなら話は別です。しかし、COMLへ届くのは「説教された」「説得されてしまった」というナースに対する苦情で、中には涙ながらに「叱られた」と訴える人までいます。何よりも医療現場における看護の自立が確立されていない現実では、患者管理や患者教育の名のもとにどうしても患者の意思は押さえ込まれ、ときには医療側の都合に合わせてゆがめられてしまうことさえも決して珍しいことでない、という実情もあるようです。
例えば、この研究会で議論されようとしていた看護の「質」と患者の目に映っている日常の看護現場の実情とにも大きな隔たりがあるようですし、それぞれの立場が言わんとする「仲介者」という言葉そのものにも、微妙な違いがあると思います。まずはそうした“溝”を埋めることが先決で、そのためには十分な時間をかけた本音の議論が必要です。
それぞれの主張を持った“異文化”がそれほど簡単に溶け合うはずはなく、大切なことはいかに調和するかです。お互いに調和しようという気持ちさえあれば、遠慮なく本音を交わし、気づき合い、歩み寄ることができるのではないでしょうか。