辻本好子のうちでのこづち

No.004

(会報誌 1994年11月15日号 No.51 掲載)

“善意の押しつけ”に感じた息苦しさ

 6月のある日曜日。東京医科歯科大学の講堂で行われた集会で、私は『患者と医療者のより良い絆づくりのために』と題して一時間の話をさせていただきました。主催のトータルライフ研究会は、21世紀の赤ひげとナイチンゲールを目指す研究熱心な医療者の集まりです。グループの名が示すように病を診るだけでなく、患者を一人の人間としてトータル(総合的)に捉える医療を目指して切磋琢磨。会の合言葉は“人間が人間らしく生きるのを助ける医学・医療を求めて”と、患者にとって願ってもない医療姿勢が示されています。

錘(おもり)と感じた献身的な姿

 午前10時開始、招待講演と銘打った私の話が始まる11時40分までに4題の症例報告が発表されました。まず小児科医が乳児期のアトピー性皮膚炎の治療に対し、母親との積極的な対話を求めた例。つぎに麻酔蘇生科の女医さんからは、ブロック注射と対話療法で更年期女性の不定愁訴を緩和した例など。なかなか心を開こうとしない患者や患児が、ドクターの献身的とも言える働きかけで回復に向かった感動的な内容でした。
 私がこの日用意してきた話は「心を開いた本音の対話の中には、必ず気づき合うことがあるはず。気づき合ったお互いが一歩ずつ歩み寄って、新しい関係を築き合いたい」という、電話相談などで届く患者からのメッセージでした。ところがそんな報告を聞くうち、私の頭の中はまっ白になってしまったのです。用意した内容がまったく噛み合わないほど、すでに十分患者との対話を実践している医療者のグループであることを思い知らされ、焦り始めてしまいました。
 と同時に、言葉にならない違和感も覚え始めていました。報告に立つドクターの表情は揃って優しく穏やかで、あくまでも患者の側に立とうとする誠意ある方々ばかり。それなのに何やら大きな錘(おもり)がドーンとのしかかり、逃れようにも逃れられないような感じがしたのです。あまりに「いいお医者さん」が前面に出過ぎていると、患者は遠慮して何も言えなくなってしまう。そんな善意の押しつけのようなものを感じ、息苦しさを覚えていたのだと思います。

患者のわがままな思いにも温かい拍手

 患者の代弁者を名乗るCOMLを了解し、招いてくれた研究会であればこそと意を決し、私は演題に立ったときにはしっかり開き直っていました。震えそうになる両足を踏ん張って、まず混乱した気持ちを正直に語りました。そして、無用となった原稿を握りしめながら、対話や共感の医療姿勢であって欲しいと願う気持ちの裏側にある屈折した患者の感情。つまり有無を言わせないような善意の押しつけには、あらがいきれない苦しさを感じてしまうこと。患者の心のどこかにそんな「わがまま」な気持ちも潜んでいることを理解し、ときには患者が「ノー」と言えるような逃げ道も作って欲しいなどなど。そんな勝手ながらも正直な患者の思いを、夢中になってしゃべっていました。
 フッと気づくと、会場から刺すような視線が私に向けられていました。一瞬、身震いを感じ「なんと生意気な奴!」と非難されているのでは、と急に不安になりました。でも小さくうなずく眼差しから、とても温かいものが伝わってきました。
 最後に「ありがとうございました」と結んで礼をする私に会場から力強い拍手が送られ、席に戻るとあちこちから握手が求められました。一気に緊張が弛みヘナヘナと座りこんだ私は、耳を傾けていただけただけでも感謝で一杯だったのに……と、胸がつまり目頭が熱くなってしまったのです。