辻本好子のうちでのこづち

No.149

(会報誌 2007年8月15日号 No.204 掲載)

私と乳がん(63)

医療者には一言添える余裕を持ってほしい

 手術後3年、目覚めたときの左指のこわばりに不安を覚えて近所の病院を受診。そのとき採血を担当してくれた若いナースの話です。

ナースの「100−1=0」対応

 外来から回されて処置室に向かったときはすでに正午を回っていましたが、やはりここにも幾人もの患者さんが順番を待っていました。その表情は一様に無表情で、病院へ来たら待たされても仕方がないと諦めきっているようでした。感じないはずのない苛立ちを押し殺すしかない状況で、従順な患者であろうと努力する人に患者の主体性や自主性を要求することは、やっぱり難しいことなのかしら……と思いをめぐらせながら、私も待合のベンチに座っていました。そうしてしばらく待つうち、ようやく名前が呼ばれました。
 採血担当は背の高い若いナース、カウンター越しに向き合ったときに私から軽い会釈をしました。しかし、彼女にはそんな私の態度が見えていないのか、はたまた気にもならないのか、なんの反応も返ってきませんでした。そればかりか外来診察のドクターと同様、「お待たせしました」の一言もありません。そうした一言を添えることは看護学校で学んできたはずだと思うのですが、おもてなしの心であるホスピタリティどころか愛想のかけらも彼女から感じることはできませんでした。そんな無愛想なナースの目の前の椅子に座ろうとした、まさにそのときです。
 いきなり「お名前は? 生年月日は?」と問われたのです。ナースにそのつもりはなくとも背が高いだけに、まるで見下されているような視線を感じていたそのうえに、かぶせるような唐突な質問。私は不覚にも一瞬、ムッと小さな怒りに似た感情を覚えてしまいました。<こんなに長く待たしておいて、そういう言い方はないでしょ!><どうして、お待たせしましたくらいのことが言えないの?><あなたに命令されなきゃならない理由はないはずです!?>とわが子であれば、あるいはCOMLのスタッフであっても、きっと私は厳しく言い返していたに違いありません。
 しかし、初めて向き合った、しかもすっかり感性の鈍ってしまったようなそのナースに文句を言っても仕方ないと、とっさに感じてしまったのです。なぜなら、そのときすでに私は、<二度とこの病院には来たくない!>という気持ちになっていたからです。それだけに、あえての苦情を伝える勇気など毛頭ありませんでした。もしそのときの私に、少しでもこの病院を大切に思う気持ちがあったなら、きっと何かの形で改善して欲しい想いを伝えていたと思います。直接ナースに苦言を伝えたかどうかは別にしても、たとえば帰り際に総合案内に立つ看護職の上司に伝えるなり、あるいは「投書箱」に意見を届けるなりしたでしょう。
 病院管理者や上司の目の届かない現場の片隅で、たとえ小さくとも一つでも患者がマイナス感情を抱いてしまえば、いまや『100−1=0』になりかねないことを最近の電話相談が如実に物語っています。それだけに病院にとっては、患者の苦情はまさに『宝物』のはず。患者が病院を大切に思い、もっともっと良くなって欲しいという願いを積極的に届けたくなるような仕掛けを、どうかこれからの病院にはぜひとも取り組んで欲しいと願わずにいられません。

患者から見れば“オンリーワン”

 そういえば数年前、入院中の高齢男性の患者さんから届いた電話相談であれこれとナースの苦情を語るなかで、「そうそう、そういえば、なんで最近の病院は、何度も何度も患者に名前を言わせるんだネ?」と尋ねられたことがあります。いまのように、病院のあちこちに医療安全への患者の参加協力を呼びかける掲示がほとんど見当たらなかったころのことです。もちろんその方には、患者確認は医療安全対策の一環であることを説明して納得していただきました。ただ、いまも強く印象に残っているのは、その患者さんが“言わせられた”という少なからぬ被害者感情を抱いておられたことです。
 その日の私も相談者と同じように、若いナースの無作法とも言えるような態度に強い反発と違和感を覚えてしまったのだと思います。ただ、彼女の身になって考えてみれば、朝から長い時間ずっと、何人もの採血患者さんに同じ言葉を繰り返す苛立ちを、正直、わからないでもありません。ひょっとすると少し面倒になってきて、無意識無自覚に余分な言葉を省きたいという気持ちに左右されていたのかもしれません。日常業務の忙しさと慣れのなかで、おもてなしの心もすっかり色あせ、次から次に採血する患者さんと向き合ううちに感情まで擦り切れて、芝居のせりふのようなマニュアル的な対応になってしまったのでしょう。
 しかし、彼女にとって私は、何人も向き合う患者のうちの一人でしかないかもしれませんが、私が向き合って採血してもらうのはそのナースだけです。もし彼女が、あのときに「患者さん確認のためです。お名前と生年月日をお願いします」という一言を添えていたら、少なくともマイナス感情など感じずにすんだと思います。10秒とかからない、そんな一言が添えられるか添えられないかで、患者の受け止め方は大きく変わります。せめてナースには、そうした患者の機微を感じる心の余裕を失って欲しくないと、いまも思い出すたびに願うことの一つです。

※これは2005年の出来事です。