辻本好子のうちでのこづち
No.095
(会報誌 2003年2月15日号 No.150 掲載)
私と乳がん⑨
手術翌日
4月26日、手術の翌朝。明け方までグッスリ眠れたのは、ひとえに薬の効力か。右肩から胸にかけて大きなガーゼが当てられているが痛みはほとんど感じない。それよりものどが痛い。風邪を引いたときのような腫れぼったい感じ。麻酔で4時間近く気管に人工呼吸器を通されていたのだから仕方ないのだけれど……。
7:30頃、8:00から予定されている主治医の術後の説明に立ち会ってくれる山口が心配そうな顔で到着。主治医から、早期ではないが進行がんでもない旨の詳しい説明があり、質問にも丁寧に答えてもらう。前夜、たどたどしいながらも長男が伝えてくれた内容と大きな違いはない。ゆっくり階段を上りながら“真実”に近づいていくようで、とくに疑問は残りませんでした。
ただ、3週間後の病理結果を待たなければ何ともいえないけれど、切除したリンパ節に(がんが)飛んでいれば治療はフルコースになるらしい。一般的には、抗がん剤治療や放射線治療、そして5年間のホルモン療法が必要とのこと。3週ごと6クールの抗がん剤、5週間連続の放射線……と聞いても具体的なイメージは浮かんでこない。ただただ、仕事とどう折り合いをつけて行けるのか、それだけが頭の中でグルグルとまわっていました。
とりあえず現状は納得できたものの、やはり拡大手術になったことはショック。しかし、しこりに気づきながら1年以上も放置し、忙しさにかまけてきた怠慢の結果のなにものでもない。いまさら嘆いてみてもしょうがない。闘うとか闘わないということではなく、乳がんという“もちもの”と自然に暮らすために「どうしたいのか?」。幸い入院中はたっぷりと贅沢な時間が与えられている。心の奥底の自分の気持ちとジックリ向き合ってみよう。そう気を取り直すと、とくに気張ったつもりもないのに不思議と涙は出てきませんでした。
10:30、ナースが点滴と導尿をはずして離床の許可。これでトイレにも歩いていける。熱いタオルで丁寧に体を拭き、洗髪までしてもらって身も心もサッパリ。まさに生き返った気分。心配していた痛みはしっかり薬でコントロールされている。術後初日くらいはと、朝から次男が病室に詰めてくれてはいたものの、ほとんど手助けの必要なし。こんなときくらい甘えればいいのだけれど、できることは自分でやりたい。ただ、そばにいてくれるだけでいい——そんな私の気持ちを十分にわかってくれている。ムリに手を出そうともしない。静かに、そして穏やかな時間がゆったりと流れ、久しぶりの母子の会話がはずむ。遠慮のない存在が、こんなにも心安らぐものかと改めて実感しました。
20:00、病棟主治医が訪室。切除した肉片の写真を一緒に見ながら、再度、詳しい説明を受けた。「ここまでの説明で質問はありませんか?」と何度も聴いてくれる。<日本の医療も変わってきたなあ〜>10年前、ニューヨークの病院で内科医とHIV患者のインフォームド・コンセントに立ち合ったときの記憶が突然よみがえりました。最後に「この写真をいただきたい」とお願いし、快く了解してもらいました。
そして消灯。長かった術後初日は、こうして無事に過ぎました。ところが——。
0:00頃、痛み止めが切れてきたのか、痛みがだんだんひどくなり、ついに我慢しきれずナースコールを押して座薬をもらいました。どういう時間配分で痛み止めを飲めば、夜間も含めた24時間の痛みのコントロールができるのか。薬剤師の服薬指導は手術前に終わっているし、わざわざ来てもらうほどのことでもない。明日、ナースか主治医に相談してみようと、あれこれ考えていると目が冴えてなかなか寝付けませんでした。
日中、痛みがコントロールされていたときは「一日も早く退院したい!」、そんなことばかり考えていました。が、もし自宅でこんな痛みに襲われたらと思うとゾッとして、強がっていた気持ちが一気に萎えてしまいました。痛みは、ほんとうに人の心を弱くする。ともかくじっとしていることが大の苦手なだけに、長く入院していたら、ほんとうに「病人」になってしまいそう。なんとか早く脱出したいけれど、当面の敵(!)はこの痛み。
じつは「入院治療計画書」を提示されたときから、密かに5月2日に退院しようと心に決めていました。その5月2日が入院10日目にあたり、ちょうど連休の谷間。連休中は病院もほとんど休診状況になるのだから——。
小さな未来に目的を持つだけで、弱くなりそうな心が奮い立つもの。自分を勇気づけるためにも、私には具体的な目標、希望が必要でした。そうして翌日から“脱出”を目指した、体力回復のリハビリをスタートさせることにしました。