辻本好子のうちでのこづち
No.082
(会報誌 2001年12月15日号 No.136 掲載)
第四次医療改革の行く末にしっかり目を向けて
本音と建前が錯綜する舞台裏
毎月届く電話相談の統計グラフの折れ線が一気に右肩めざして駆け上がりはじめたのは、第三次医療改革のあった1997年あたりから。その頃から患者の権利意識とコスト意識が目を見張る勢いで高まり、50〜60代ないしは30〜40代の患者本人や家族の立場の方からの相談が急増し、患者意識の世代交代も痛感させられています。
2002年4月、先送りされてきた第四次医療改革が、ついに断行されます。さまざまな医療問題が連日マスコミを賑わせ、耳障りのいい「患者中心」「医療の質の向上」「公平性・透明性」というキーワードは盛んに登場しますが分かりにくいことこの上なし。ようやく焦点のサラリーマン医療費負担が(“必要なときに”と、なんとも曖昧な)3割で最終調整に入ることになり、改革の方向性は示されたものの具体策は何一つ見えてこない不透明極まりない状況です。
それでもめげずに、日々刻々変わる報道内容にしっかり耳を傾け、目を向けていると見えてくるものがあります。受診抑制を狙う厚労省、収入滅は絶対に許せないと労使交渉を彷彿とさせるような医師会の画策、そして財政破綻に追い込まれた支払い者側の必死の攻防。それぞれの立場と役割の思惑と建前と本音が錯綜する“政治は妥協なり”の大舞台の向こうから、大人の駆け引きとはこうやるものと、次代の担い手への教育的効果まで狙っているのかと、うがってみたくもなります。
大義名分の「患者のため」が飛び交うなかで
今回の改革案のなかであまりマスコミに登場しない「株式会社立病院の許認可」という問題があります。11月19日の社会保障審議会・医療部会で、構造改革問題に取り組む経済学者とシンクタンクメンバーからのヒアリングがおこなわれました。医療の質の向上には競争原理が不可欠という観点から、経済界としてはまさにイケイケドンドン。現状の医療におおいなる不満を抱く患者には、じつに心地よい論理展開です。しかし当然に医師会や病院協会は猛反発。そうした喧喧囂囂の議論のなかで両者の口からお題目のように飛び出すのは、いつもの『患者のため』という言葉。<ちょっと待ってヨ、その言葉!!><本音がどこにあるかくらいは見えてるんだから……モォいい加減にしてよ!!>と我慢ならず、議事終了直前に(本心よりは少し品よく)またまた“人の為は偽りなり”を引用して本音を叫んでしまいました。
『患者さんのため』といえば、小泉改革が医師会にも強いる「痛みわけ」に猛反発するかたちで展開された全国の医師会による署名運動。そこでもやっぱり巧みに、この言葉が多用されました。日頃お世話になっている主治医に署名を頼まれて、どうして患者が「ノー」といえるでしょうか。また残念ながら、署名した一人ひとり(とくにすべての高齢者の方々)に、わかりにくい改革の問題点が見通せていたとは思えません。医療現場にいまもなお根強く潜む上下関係という哀しい現実のなかで“妥協”と和解した患者の意思を、そんなふうに利用して欲しくはないと私は思います。
そうしたなかで、やっぱり株式会社立病院問題にも患者の声が入り込む余地がありません。病院に企業資本が流れ込むことによって、これまでの医療と何がどう変わるのか。今日の医療のありようを変えるための単なる手段なのか。となれば、ほかの方法だってあるかもしれない。それなのに、なぜ、いま株式会社立病院が必要なのか。その理由と根拠をもっと分かりやすく示してこそ、私たち国民が議論に参加できるというもの。しかし、賛成派はあいかわらずメリットを、そして反対派はデメリットばかりを主張し合っている。しかもそこに飛び交うのが『患者のために』という大義名分。これでは、まったく議論になりません。
医療における人間性善説も安全神話も、いまとなっては完全に説得力を失墜しています。たとえごく一部とはいえ、とんでもない医道を歩む医療者に散々裏切られてきた私たちが、景気低迷の厳しいなかで「痛み」を余儀なくされる第四次医療改革となれば、これまで以上に権利意識やコスト意識で自己防衛するしかありません。
第四次医療改革の行く末にしっかり目を向け、耳を傾けなければならない年の瀬です。