辻本好子のうちでのこづち
No.062
(会報誌 2000年3月15日号 No.115 掲載)
ナースに期待したい“中立的ポジション”
ナースの“無意識の善意”が患者とズレて
日本がん看護学会のシンポジウムに参加、テーマは『21世紀のがん治療』。がん看護に対する患者の願いを語る役割。言いたいことは山ほどあるのに20分でいったい何を語ればいいのか。伝えきれないもどかしさを抱え、前夜まで言葉探しに心を奪われました。シンポジストは4人。大阪府立成人病センター名誉総長が「これからのがん治療」、同センターのドクターは「がん予防の展望」ということで精力的に禁煙対策を主張。そして私の発言のつぎにホスピスの専門ナースが「がん看護の展望」について。会場を埋めた1000人余のナースは医療側だけでなく、看護を受ける側の異なる立場の声にも耳を傾けてくれ、ようやく双方向性の時代が来たことを実感し、嬉しくなりました。
この学会が発足したのは15年前。当時、がんは死の病といわれ、おそらく学会に参加するナースたちは「気の毒な患者さんを助けてあげたい」という優しさと善意に満ち満ちていたに違いありません。そして、その思いは今も営々と引き継がれ、今回も2日間の研究発表プログラムに「疼痛コントロール」「心のケア」「自立を促す看護」「患者指導」など、ナースの“やってあげたい”思いが溢れ出そうな演題がズラリと並んでいました。
しかしここ数年、とくにがん患者を取り巻く環渡は大きく様変わり。患者の世代交代や価値観の多様化、インターネットなどによる情報収集能力の向上など「気の毒な存在と決めつけられることは迷惑!」と抵抗感を抱くような患者も増えています。最近の電話相談でも単にナースの優しさや善意だけを求めているのではなく、自分のことを自分でコントロールする、つまり患者の自己決定の支援として「ナースに期待できることは何か?」という問い合わせが届いたりするのです。
ところが看護現場のナースの意識は旧態依然。“やってあげたい”という無意識の善意が、そうした自己コントロールを望む患者の気持ちとズレたまま、人間関係にまで歪みを生んでしまっているようなことも少なくありません。ところが当のナースがまったくそのことに気づいていない、ということも結構あります。COMLに届いた患者や家族のそんな「なまの声」を紹介して、なにより双方向の意思疎通をするために対話(やりとり)が必要だということを強調しました。
患者の気持ちを二分割にしないで!
もちろん双方向となれば、当然に患者の参加意識も必要です。受け身や甘えの意識構造を見直すことや多少の勇気を持つこと、さらには医療の限界や不確実性というリスクを引き受けるなど、患者が責務を自覚すること。そうした患者の自立のプロセスに、一番身近な存在であるはずのナースの支援をぜひ期待したいのです。ところがそこで障害になるのが、じつはナースの自己満足や優しさの押しつけといった看護のパターナリズム(父権温情主義)。一方的な決めつけや強い思い込みで向き合われると、患者はしんどくなります。
ある看護の教科書に『死を受容した患者や遺族は「心が澄み」、あきらめて死を迎えると「にごり」が残る』ということが書かれています。これは患者や家族の気持ちを勝手に二分割する何ものでもありません。こうした看護教育こそが患者との意識のギャップを生み、対話をはばんでいることを思うと私は強い憤りを禁じえないのです。時代が変わり患者の意識も変わっているだけに、看護教育も見つめ直す時が来ているのではないかと思います。「がん看護」に限らず、看護全般に期待するのは、ナースの“中立的ポジション”。ドクターにも患者にも偏らない、プロとしての誇り高い役割意識を持っていただきたいということです。しかし、さいごに4人の発言を総括した座長(看護大学教授)に「看護のパターナリズム性を指摘されたことがショックだった」と反応され、まだまだハードルが高いことを痛感させられました。