辻本好子のうちでのこづち
No.055
(会報誌 1999年7月15日号 No.107 掲載)
“悪い情報”を伝えるときは……
裏側に潜む意図次第で大きな違いが
COMLにどっぷり身を浸していると、じつにさまざまな批判や中傷を受けます。同じ批判といってもいろいろで、まったく気持ちが後ろ向きになってしまうだけのこともあれば、「ヨーシ、もっとガンバロー!」と前向きな気持ちになれることもあります。何か違うかといえば、そうした批判の裏側にどんな“意図”が潜んでいるかが問題だと思います。
たとえば価値観の違いの押しつけや腹いせなど、正しく導いてやろう、ちょっとこらしめてやろう、そんな多少の下心が潜んでいる場合。一方は、もっと成長してほしい、もっと努力できるはずという期待や希望、警告が励ましにつながるような応援メッセージだったりする場合。当然に、受ける側の気持ちに大きな違いが生じます。それだけに批判的なメッセージを伝えるときのモラル、守るべき最低のルールがあると私は思っています。
COMLの活動でもSP(模擬患者)や病院探検隊など、医療者の側に率直な意見や感想をフィードバックする役割が求められます。「あえて厳しい批判を受けたい」「感じたままの率直な意見を!」と要求され、結構、伝える側としても緊張を強いられ、責任を感じます。そうした“悪い情報を提供する”ときに、少しでも人格攻撃のようになると声が届かないことも学ばせられます。
愛と勇気と知性があるかどうか
いわゆる“悪い情報を知らせる”ということについて、あれこれ考えているときにフッと思い出すのは20数年前のある出来事。当時小学生だった長男が、なにやら悪さをしたときのことです。
母親の私は“しつけ”という名の武器の拳を振りあげて、彼を洗面所に追いつめました。その瞬間、たまたま鏡に映った自分の顔と視線があって、あまりの醜さにゾーッとしました。そして同時に、私をにらみ返している息子の憎悪に燃えた目でフッと我に返り、わが子にこんな目をさせてしまっている自分の行為が恥ずかしいやら情けないやら。突然、ワーッと泣き出してしまったのは私の方でした。自分の未熟さを棚にあげ、感情に任せて彼の心に土足で踏み込めば恨まれても当然。何一つ思いも伝わらないばかりか、心を閉ざすだけ。なんとも恥入るばかりの思い出です。
そんな体験から、できるだけ自分の考えが最高とは思わないことと、一方的に上からものを言わないことを心掛けるようにしました。なるべく心静かに彼の話にしっかり耳を傾けるようになったことで、なにより私自身の気持ちが楽になりました。批判という、いわばマイナス情報を伝えるとき、まずは相手の個性を認め、自分との違いを尊重しているか。つまり真の対話ができる関係や状況があるかどうかを判断したうえで伝えることが大切だと肝に銘じています。
それでも、どうしても、批判しなければならない立場になったとき。まずは相手の感情がどんなふうに動いたかに関心を持ち、揺れる心に寄り添って最後まできちんと向きあえるか。そして、相手がちゃんと理解してくれるまで伝えきる覚悟を持っているか。キザな言葉でいえば、相手に対して「愛と勇気と知性」を持っているかどうかを自問自答してからでも遅くはないと思います。
相手を理解したいという気持ちもないのに、一方的に非難や批判をすることは天に唾(つば)する行為に似た単なる自己満足。とはいえ、どうしても相手の意に添えない自分を感じたら、スッパリ諦めるしかないのかもしれません。