辻本好子のうちでのこづち
No.044
(会報誌 1998年8月15日号 No.96 掲載)
“人間関係の基本”を考えることから変化が
九州・佐賀の保険医協会が主催する市民公開講演会に招かれ、『こんな医療にかかりたい−患者の本音と医者の善意』というテーマを与えられました。医者の団体が企画する催しのテーマとしてはかなり画期的で、もちろん私が希望したわけではありません。つくづくと、時代が医療を変え始めているナということを感じさせられました。
医療側から「医者の善意」の見直し
サブテーマの「医者の善意」はかつて「お任せ医療」だった時代の遺物、つまり医療のパターナリズム性(父権性温情主義)といわれた「素人は黙っていればいい!」「私に任せておけば間違いない!」「悪いようにはしないから」と医者が患者に有無を言わせなかった姿勢を、むしろ患者側がひそかに批判するときに使っていた言葉です。時代の遺物といいつつも、じつはいまでも日本のあちこちの医療現場の隅々で、「お任せ」から抜け出せない患者を相手に横行している“あいまいな人間関係”の根源でもあると思います。
私はこのテーマを与えられたときに、医療者側が自分たちの善意性を見直そうとする意図が伝わってくるように感じて、「ビックリし、同時に、とても嬉しかった」という率直な思いを最初にお話して、とりあえず「善意」ということについて考えてみたこんなお話をしました。
結局問われるのは自分自身
まず最初に、私自身の周りのあれこれを振り返ってみて、日常生活のなかに「善意の(つもりの)押しつけ合い」がいっぱいあることに改めて驚きました。もちろん私が送り手になることもあれば、受け手になっていることもあります。たとえば中元や歳暮の“やりとり”などもその一つと考えてみると、巷(ちまた)にはなんの疑問も感じないまま生活習慣、あるいは日本の古き良き文化、はたまた社会の潤滑作用として繰り返しおこなわれています。つまり決して医療現場、あるいは医者だけの問題ではないと思うのです。
そこで“あえて”一方的な「善意」の押しつけの背景に何かあるのだろう、ということを考えてみました。そこにはおのずと他を受け入れない排他性が生まれ、受け手の側は当然に行為の主体ではなくなります。しかも“その人”の個別性を踏みにじり、知らず知らずのうちに相手をひとくくりの存在として匿名化していることもあるでしょう。さらにいえば、そうした善意の裏側にはひょっとすると自分のもろさを押し隠そうとする気持ちが潜んでいることだってあるかもしれません(じつは先日、出張先の名産を実家に贈って、日頃のご無沙汰をカバーしようと罪ほろぼしの気持ちを抱いた私自身の反省でもあるのですが……)。
「善意」の送り手と受け手がそれぞれに相手の気持ちを思いやり、相手の立場に立って「違いを認め合おう」とすると、結局は自分のものの考え方そのものに関心を向けずにはいられません。だからこそ私たち患者は医療の善意性を頭から否定せず、医療現場で医療者と向かい合ったときに自分が「どうしたらいいか?」を考えることがなにより大切になってくるわけです。
患者も医療費も「変わらなくっちゃ!」のいま、こうして患者と医療者が一堂に会し、基本的な人間関係の“根源の問題”を一緒に考えることは大歓迎。 COMLに届く「本音」を紹介しながら一般市民のみなさんにはもちろん、地元のドクターやナース、薬剤師の参加者に「ご一緒に考えましょう」という思いを精一杯、訴えました。
ひょっとすると患者さえ意識を変えれば、医療は小回りのきく地方から変わるのかもしれませんネ。