辻本好子のうちでのこづち

No.150

(会報誌 2007年9月15日号 No.205 掲載)

私と乳がん(64)

品格までにじみ出る“言葉”

 採血の際に若いナースから、いきなり名前と生年月日を言えと命じられて「不満のスイッチ」がカチッと音を立てた後、日ごろは静かに眠っているはずの意地悪な辻本好子が目を覚まし、わずかな会話ながら、じつはナースとのエピソードのこんな展開もありました。

採血のたびに痛い思い

 小さな枕に左腕を乗せて差し出すと、ナースは無言のままゴムひものような躯血帯で上腕をキュキュッと縛りました。そして、流れがせき止められて浮きあがってくるはずの血管を懸命に指で採るのですが、なかなか採血に適した血管を見つけられない様子。なぜか私の血管は細く華奢(?)にできているようで、いつも担当者泣かせ。ほとんど1回で採血をしてもらった試しがありません。血管が細くて見えにくいうえに化学療法の後遺症で血管壁が硬くなっているのか、注射針の進入を拒みます。針先がツルツルと滑ってなかなかうまく入らず、下手をすると前腕で二度三度、つぎに手首で試してみて、それでもだめなら最後は手の甲で……と、これまで何度も採血のたびに痛い思いをしてきました。
 哀しいことに指先に近い神経ほど痛みに敏感なようで、手首や手の甲の血管に針が刺さるときはもちろん、採血後もしばらく刺したあとが痛みます。とくに手の甲にいたっては、目にした人が「どうしたの?」とビックリするほどの内出血。はじめは赤く、次第に紫からどす黒く変色して、結構長い間目立ってしまう“おまけ”まで。それでもたまには採血の名手のようなナースや検査技師に当たることがあって、しばらく逡巡したあとに「エイ、ヤッ」と一発で成功することがあります。そんなときは、おもわず「お見事!」と褒めてあげたい気持ちです。
 たかが注射や採血といえども、やっぱり医療技術の一つです。採血のたびに<この人に担当してもらってよかった>と感謝できる人に出会いたいと私は密かに祈ってしまいます。

患者にため口で対応?

 なかなか採血できないことに苛立っているのか、焦っているのか、なんだか怒っているようなナースの無言の横顔。懸命に左腕の血管を採る若いナースに「翼状針(※1)でお願いします」と喉の先まで出かかったのですが、我慢して黙っていました。じつは以前、ベテランのナースが担当したときに、やっぱりなかなか針が刺さらないで困った様子だったので、なにげなく「いつも翼状針で採血していただくんですヨ」と声をかけました。すると一瞬、びっくりするほど嫌な顔をされたことがあります。ひょっとすると、患者に指示されたような気分になって、面白くなかったのかもしれません。そんな学習体験で、以後、絶対に私からお願いすることはしないでおこうと心に決めて、そのときもしばらく眺めていたというわけです。
 すると左腕からの採血を諦めたのか、いきなり上腕を締めつけていた躯血帯をはずして「では、右手出してください!」。私はおもむろに「右腕は乳がんの手術をしているので採血できないんです」と答えました。するとナースから返ってきたのは「そっか、そっかぁ!」と、まるで友達としゃべっているときのような、いわゆる“ため口”でした。
 馴れ馴れしい言葉遣いに耳を疑いたくなるような気持ちで「えっ??」と聞き返そうと思ったのですが、その衝動を抑えて「いつもは、手首か手の甲で採血してもらうのですが……どちらも痛いんですよネ。比較的痛くないのは、どちらなんでしょうか?」と話の接ぎ穂を見つけて尋ねてみると「う〜ん、ビミョーっすよネエ〜」。悪気など微塵もない、あまりにあっけらかんと明るく言ってのけられてしまって、おもわず噴き出したくなる気分でした。
 思いもしなかった“ため口風丁寧語”が返ってきたことに反応して、そこで私の意地悪スイッチが作動したというわけです。決して試すつもりなどなかったのですが、そのあと、ちょっぴり芝居がかったしんみりした調子で、「乳がんの手術など経験すると、痛みや気になる症状が出てくると、転移かしら、再発かしらって心配になって、こうして病院に飛んできてしまうんですヨ」と、さらに話をつづけてみました。すると最後のダメ押しは「ヤバイっすよネ!」と、のけぞってしまいそうな言葉が返ってきました。
 ところがそっと彼女の表情を伺えば、決していい加減な対応をしているわけではありません。真顔で注射針を注視しながら、それでも患者の言葉を共感的に受け止め、心配してあげたいという素朴な気持ちはちゃんと伝わってくる人だったのです。それなりの感性は備えている人のようですが、しかし、いかんせん、あまりにも言葉遣いがなっていません。若いからと許される問題ではないと私は思いました。
 もちろん、すべての“ため口”を否定するつもりはありません。世代や地域によっては、取ってつけたような気取った言葉なんかよりずっと気楽でいい、そう言い切る人だっているでしょう。それだけに、ある程度の人間関係を築いたのちに、ざっくばらんな会話を望む患者であれば、むしろナースが“ため口”で語りかけることで患者が心を開き、スムースな人間関係が築けることだってあると思います。しかし、ドクターやナースには初対面でいきなり“ため口”を遣って欲しくないと私は思っています。言葉は「言霊(ことだま)」とも言われ、見えない力が潜んでいるもの。そして、話す人の人格ばかりか属する背景(組織や家庭など)の品格までにじみ出るものです。
 ナースとの二言三言の会話がまさに「100−1=0」、<やっぱり、この病院は二度と来ないでおこう>と思ってしまい、以後、その病院を受診する気になれず、一度も行っていません。

  • (※1)翼状針(ヨクジョウシン):チューブ付きで針の根元に翼状の取っ手のある細い注射針

※これは2005年の出来事です。