辻本好子のうちでのこづち

No.122

(会報誌 2005年5月15日号 No.177 掲載)

私と乳がん㊱

患者——かくも複雑な生きものなり
今後は減る? 先人の知恵の継承

 抗がん剤の副作用のシャックリ止めに柿のへたを煎じた漢方薬が効く……といっても、人それぞれのよう。後から聞くところによれば、まったく効果がなかったという人もいれば、耳の穴を人さし指か親指で顔がゆがむくらい強い力で30秒くらい押すと75%の患者は止まったという話もあるようです。教えてくれた麻酔科の女医さんから、しゃっくりに関する論文がメールで届き、改めて「たかがシャックリ、されどシャックリ」の感を強くしました。
 じつはこれ以外にも、さまざまな方法があるようです。抗がん剤の副作用ばかりか手術後にもシャックリで苦しむ患者さんが多く、そんな患者さんを目の当たりにすると昔のドクターは「何とかできないか?」と苦しんだり悩んだりしたそうです。先輩たちに尋ねまわったりすることで「こうしたら止まった」「ああしたら止まる」という情報交換がなされ、そうやって雑学レベルの情報をあれこれと身につけてきたものだ——と、懐かしそうに語るベテランドクターのつぶやきも聞ききました。
 いまでは平均在院日数が減って、抗がん剤治療もほとんど外来治療でおこなわれるようになりました。そうとなれば、患者さんが苦しむ様子を主治医が目の当たりにすることもなくなってしまうわけです。ましてドクターにとってシャックリは抗がん剤治療における想定内の副作用でもあるだけに、「それくらい我慢しろ」という気持ちだろうと思います。シャックリを止めることへの関心は、今後ますます希薄になっていくばかりか、マニュアル一辺倒の若いドクターにこうした先人の知恵や工夫が継承されることなど、今後は期待できなくなっていくのでしょう。
 とにもかくにも私には、柿のへたは効果があったのです。たまたまよく知った、しかも白血病治療の豊かな経験を持つ専門医の親身なアドバイスだったこともあって、ある種のプラセボ(偽薬)効果につながったのかもしれません。それにしても体を動かしてもシャックリがでないというだけで、3回目の副作用はずいぶん楽だったように思います。しかし、つねに口のなかで砂を噛んでいる感じはそれまでと変わらず、点滴から2〜3日は前回と同様、冬眠中の熊のようにただただじぃ〜としているしかありませんでした。

複雑に揺れる気持ち

 それでも4日目あたりになると徐々に、しかも確実に“よみがえって”きます。そんな頃合いを見計らって(もちろん事前の了解を求めてくれたうえで)山口が自宅を訪ねてくれました。二人の間で『講演セット』と呼んでいる、講演先にまつわる必要事項を記したカードや依頼状、交通機関のチケットなどを手渡す仕事上の連絡が建前ながら、どうしているのかと心配でたまらず様子を見に来てくれるのです。
 山口とはCOML2年目に出会って以来のパートナシップ、10年以上のつきあいです。しかし口には出しませんが、二人の間で“ほどよい距離”をどう取るかをずっと大切にし合ってきました。互いのプライベートゾーンには踏み込まないことが、いわば暗黙の了解。よほどのことがない限り山口が自宅を訪ねて来ることもなければ、私など彼女の自宅に行ったこともありません。のっぴきならない用事で来てくれたことはありますが、玄関先のやりとりで互いにさっぱり「ハイ、では、さようなら」。
 しかし、このたびばかりは状況が違います。心配する息子たちにさえ、<苦しんでいるさまを誰にも見られたくない、人に気を遣う余裕もない、お願いだから一人にしておいて!>。自分で決めたこととはいえ、3日目あたりから妙に人恋しい気分になり誰かとしゃべりたくなってくるのです。<今日は部屋にあがって、しばらくそばにいてもらおうかしら……>という甘えたい気持ちが心をかすめることもありました。しかしその一方で、何もできないジレンマを懸命に押し殺した心配そうな表情の彼女と向き合うことを考えるだけで<う〜ん、やっぱり、しんどいなぁ〜>。
 迷う気持ちが行ったり来たりするうちに、ピンポーン。結局、毎回、わずかなやりとりで数分間、玄関先ですませてしまいました。いつも、立っていることがしんどくて、話の途中で「ごめんね」と壁に寄りかかってしゃがみこんでしまうのです。するとやっぱり、(当然ながら)山口がなんともいえない哀しい表情をするのです。玄関のチャイムが鳴るたびに、<ああ今日もまた、彼女を辛い気持ちにさせてしまう……申し訳ないなぁ〜><今日もまた、あの表情を見なければならない……>と思うだけで、ズシリと気持ちが重くなってしまうという、じつにわがままな患者です。
 ところが毎回、山口とのこのやりとりが、<さぁ、仕事に復帰するぞぉ〜!>と気持ちを切り替えるきっかけになっていたのです。まさに背中を支えてもらっている、見守ってもらっている、そして、励ましてもらっているんだと、痛いほどに感じさせられる大切なよみがえりの通過地点でもありました。毎回、毎回、すまなくも、ありがたくも思いながら、玄関のドアを閉めたあとで「ありがとう、ごめんね」と小さな声でつぶやいていたことがいまも忘れられません。