辻本好子のうちでのこづち

No.114

(会報誌 2004年9月15日号 No.169 掲載)

私と乳がん㉘

抜けて知った「髪がある」ありがたさ

 たとえ安定剤1錠であっても、患者の勝手な判断で飲んだりすれば、状況によっては「こんな大変なことにもなるんだヨ」という、恥じ入るばかりの体験談を3回にわたって“暴露”させていただきました。決して抗がん剤治療をあなどっていたわけではありませんが、気持ちのどこかで気力さえあれば乗り切れると過信していたのかもしれません。いやいや、やっぱり、そんな簡単な相手ではありませんでした。
 2002年6月12日がスタートで、ゴールは9月25日。3週ごと6クールの抗がん剤治療が始まったばかりというのに、最初から予想外の大きな失敗をしでかし、周りに多大な迷惑をかけた申し訳なさで意気消沈。<いったいこの先、どうなるんだろう?>という見えない不安と、ひたすらの反省三昧で落ち込んだ数日を過ごすことになりました。
 それでもムカムカする吐き気、身体を動かすと始まってなかなか止まらないシャックリ、そして、どうにもならない倦怠感は日ごとに薄れ、食欲とともに「いつもの私」がよみがえってきました。そうして点滴から6日目には仕事に復帰することができたのです。

“脱毛”が始まった……

 6月18日、この日は佐賀の病院で夕方6時から8時までの講演。終了後に福岡へ移動して宿泊。その仕事を皮切りに、名古屋、横浜、静岡への出張という私の日常が戻ってきました。そうこうするうち、ついに主治医の予測した通りに“その日”がやってきたのです。それは、点滴から数えて12日目のことでした。
 24日は和歌山県田辺市で夜の講演があり、夜10時頃にホテルに着き、ほっとした風呂あがりのことです。濡れた髪を拭きながらテレビのスイッチを入れ、ニュースを見ながらふと手元のバスタオルを見て思わず<ギョッ!>。白いバスタオルにびっしりと髪がからみついているのです。
 「最初の点滴の2週間目くらいから髪が抜け始める」と、主治医から何度も説明を受けていました。そして、「人前で話をする仕事のようなので、早めにかつらを用意しておいた方がいいですヨ」ともアドバイスされていました。山口がデパートでパンフレットを見つけてきてくれていたので、化学療法に入る前に清水の舞台から飛び降りるような気持ちで大枚をはたき、人毛のかつらを購入していました。しかし、脱毛が始まるのは2泊3日のこの出張から帰った頃と油断し、かつらは自宅に置いたまま出てきてしまったのです。明日も和歌山県内で仕事があり、その足で関空から福岡へ飛び、福岡に泊まって翌々日が佐賀医大での講義。びっしりスケジュールが組まれているだけに、自宅に取りに戻っている余裕などありません。
 <……どうしよお〜〜始まっちゃったよお〜〜>
 啄木の「じっと手を見る」ではないけれど、しばらく目が点になったままバスタオルにこびりついている髪の毛を見つめていました。正直、そのときの気持ちは、脱毛が始まったことのショックよりも、明日、明後日をどう乗り切ろうかということしか頭にありませんでした。
 ともかくできるだけ刺激を与えないで、少しでも抜けないようにソオ〜ッとするしかありません。しかし翌朝、枕カバーに張りついた髪を見たときには、<もう腹をくくるしかない>と心が決まりました。抜けたら、抜けたとき。帽子を買うなり、スカーフを巻くなり、<なんとでもなるサ!>と思った瞬間、不思議に気持ちがシャキッとしました。

3日間で丸坊主に

 それからの2日間は、できるだけ髪に触らぬように優しく扱ってやり、決して走らない、頭を揺らさないようにと注意もし、もちろんシャンプーもできませんでした。あって当たり前の髪がこんなにもいとおしいものだったとは……。失うことになってみて、初めて「ある」ことのありがたみを感じました。
 そうした注意をしても飛行機や新幹線のなかで開く本の上にハラハラと舞い散るように髪が抜けるたびに、心細い思いを味わいました。十分すぎるほどのインフォームド・コンセントで、納得し選択して「自己決定」した化学療法。抗がん剤の副作用で髪が抜けることも覚悟はできていたつもりですが、<いよいよ、おいでなすった!>となると理屈ではどうしようもない気持ちになるものです。深く息を吸って気持ちを落ち着かせてやろうとする一方で、誰にも代わってもらえない、ひたすら自分が引き受けるしかない目の前の現実に胸が押しつぶされるような切なさも同時に感じていました。
 ようやく自宅にたどり着き、とりあえずシャンプーがしたくてシャワーを浴びました。ごくごく近い将来に全部の髪が抜けることは十分に理解していても、それでもまだ、いつもより優しく髪を抜っている自分に気づき目頭が熱くなりました。このとき初めて、少しずつ髪が薄くなるオジサマの気持ちが、ほんの少しわかったような気がしました。ところがシャンプーの刺激が一気呵成になったのか、そのあとはどうにも止まらない勢いでどんどん髪が抜けました。もう、開き直るしかないという気持ちで、テーブルに新聞紙を広げてどっかと座り込み、テレビを眺めながら手櫛のように髪を引っ張ると、あっという間に見事な丸坊主。広げた新聞紙には、私の愛しい髪がこんもりと盛りあがっていました。