辻本好子のうちでのこづち

No.058

(会報誌 1999年11月15日号 No.111 掲載)

受け身で終わらない講演会の企画に感動

講演会の前にまずは自分たちで議論

 病院個別の研修、あるいは地域単位の看護研修会などでの講演が増え、電話相談に届く患者・家族の不満や不安を代弁しています。医療や看護に対する患者の思いを90分ぐらい話したあと、決まって質疑応答の時間が用意されます。質問に応えることで話の足りない部分を補ってもらえればと思って「どんなことでもどうぞ」とサービス精神を発揮するのですが、大勢の前で手を挙げて質問するのはやっぱり勇気が必要なのでしょう。とくにナースはつつましやかな方が多いのか、ほとんど質問がありません。
 最近は、話を聞いて何を感じたかという感想やアンケート結果など、率直な批判や反論もまじえたフィードバックが後日に届いたりもします。それでも、やっぱり、その場で“やりとり”ができることが一番。質問が出ないと、なんだか言い放しの一方通行で終わってしまったよう。わかってもらえたのかしら? と、結構、不安になって、手応えのない淋しさを感じたりもしています。
 ところが、先日伺った福井県の国立病院の看護研修では、講演会の数カ月前からそれぞれの外来や病棟ごとでテーマについて熱心な議論が重ねられ、当日にその成果が発表されるという、これまでお目にかかったことのないようなプログラムが用意されていました。いつになく確かな手応えがいただけて、招かれた私の方が励まされる思いでした。

研究を契機に相談窓口も設置

 講演会のテーマは「患者さんの人権は守られていますか?」。最初にまず外来や病棟から5人のナースが登場して10分ずつの発表がおこなわれ、そのあとに私の話が60分というプログラム。業務から離れることの可能なナースが講堂に顔を揃え、さらに地域周辺の医療機関や在宅支援センターからも管理職やナースなどの参加もあったりで、会場にミニ学会のような緊張した雰囲気が漂っていました。
 テーマに添った事前の取り組みというのは、ある看護雑誌の私の拙文を全員が読んだうえで、セクションごとに何度もの話し合い(カンファレンス)が重ねられたこと。当日にそのまとめが報告されたわけです。たとえば「いつも『医者と患者さんの仲介者としての役割を担っている』といいながら、どちらかというと医者寄りの看護師が存在していた」ことの反省や、「診療の補助など医者の指示の下で動かざるを得ない部分もあるが、押しつけではない患者サイドに立った言葉がけとして、患者さんの理解と同意を得たうえでの行動をしたい」。そして、おむつ交換や清拭のときのプライバシーは配慮できても、ナースコールの対応に配慮が欠けていたことの反省から、「ナースコールの頻回な患者に時間をとられ、ナースコールの押せない患者への関わりが希薄になり『ほんとうに患者の望むケアができているんだろうか?』といった日常業務を細かく見直す」など。
 まとめとして「患者の人権を守るということは、よく話を聞き、なにが不安かを明確にして、一緒に考えながら解決していく姿勢が必要」とし、重病で言葉で表現できない患者が全身で出すサインにも患者の意思を敏感に感じ取りたいなど、コミュニケーションの重要性が再確認されました。
 当然といえば当然、単なる理想を並べただけともいえましょうが、機会をとらえては日常を振り返る、こうした作業の積み重ねがなにより大切。しかもこの看護研究を契機に、外来看護相談窓口が設置されたという画期的な成果の報告もありました。ただ耳を傾けてもらうだけよりも何倍もの手応えをいただけた、ステキな企画でした。