辻本好子のうちでのこづち

No.012

(会報誌 1995年11月15日号 No.63 掲載)

移植医療に一人ひとりの意思を届けましょう
日本移植学会のシンポジウムを振り返って

 昨年4月に議員立法として提出された「臓器移植法案」が、いよいよこの秋の国会で成立か……とささやかれていたのに、またぞろオウムやら日米地位協定問題などに引き回され、どうやら今度も“それどころ”ではないといったようす。
 移植を待つ患者(レシピエント)や移植医療関係者にとっては「一刻も早く成立させてほしい」まさに緊急問題。その一方、脳死は人の死ではない、家族の忖度(そんたく:脳死体からの臓器摘出の本人の意思が不明でも家族の意思でよしとする)に異議ありとして「立法はまだ早い」と反対する人々にとっては議論の余地が残されたとホッとする思いでもありましょう。
 それにしてもいわゆる脳死・臓器移植議論の火種は、相変わらず小さいまま。ほんの一部の当事者や有識者がそれぞれに発言しているだけで、かやの外にいる多くの人々にとってはいまもなお「見えにくい議論」でしかありません。多少なりとも意識を待って耳を傾けてみても賛成・反対双方の言い分は一向に噛み合わず、多くの人が「それでいい」といういわゆる国民的コンセンサス(合意)になっているとはとても思えません。

溝を埋めるにはあまりにも短い発言時間

 そんな最中の9月4日。 COML医療フォーラムの翌日に京都の奥座敷、宝ヶ池の京都国際会館で第31回日本移植学会が開かれました。日本の移植医療の最先端にいる人たちの集まりで、あえて反対論にも耳を傾け“溝”を埋めようと初の試み。『移植医療の是非を考える』をテーマにしたシンポジウムが一般公開され、市民の立場ということで6人の学者・専門家に混じって私も発言の機会をいただきました。
 月曜の午後2時、どんなに強い関心があったとしても一般人ではなかなか参加しにくい時間帯。大勢のマスコミが詰めかけたものものしい雰囲気のなかで「終了時間厳守」とせかされ、「学会内の異論もあったが、反対派との誤解を解き理解を深めたい」という大会々長の挨拶で2時間30分の議論がスタートしました。
 基調発言として海外で心臓と肝臓移植を受けた2人の男性がそれぞれの体験から、他人の臓器で生かされている喜びを語り、一日も早い法案成立と移植医療の発展を願う意見が述べられました。つづいて壇上に並んだいわゆる反対派・慎重派と色づけされた4人と推進派の移植医3人が順に発言。唯一市民の立場、紅一点の私がトップバッター。しかも開始1時間前の打ち合わせの席で発言時間“たった8分”の命が下り目の前はまっ白。しかしここでジタバタしたのではCOMLのこけんに関わると腹を据え、マイクに向かいました。
 例えわずか8分間であろうとも“役割”を果たさねば……と嫌がうえにも緊張が走り、あとから「すごーく恐い顔をしていた」と聞き、それが翌日の前髪スパッ!に及んだ所以でもあります。

移植医療の主体は患者

 「ほんの間際に“8分”と通達することそのものが、パターナリズム(父権的温情主義)。医療現場で一方的に医療者の判断を押しつけられて困惑している患者の気分」という精一杯の皮肉に会場から笑い声が漏れ、少し気持ちが楽になりました。
 患者が「どういう医療を受けたいか?」の意思を持ち、自分の医療は自分で決めたいと思うように意識が変わり始めているにもかかわらず、一向に医療現場の意識は変わろうとしない。脳死で死にゆく人、誰かの臓器をもらえば生きられるかもしれない人、共に移植医療の主体は患者。患者が望む医療は、いかに安心できるか、最期まで希望を持ち続けられるか、そして、いかに「私らしさ」が尊重されるか。医療現場の主流はいまもなお、何としても患者のいのちを助けたいという救命至上主義。医療がアンビバレンツ(両価性)の問題である以上、限界を受け入れようとしない“失敗を意に介さない勇気を持った戦士”の論だけでは立場性は越えられない。決して融合するはずのない問題の、さらなる議論の広がりで「調和」を願う——ここまでで、すでに4分。
 「それにしても……」と、このたびのUS腎(※)にまつわる一連の疑惑問題を取りあげ、国民が抱かざるを得ない移植医療周辺の不透明、不信感解消の努力と監視を厳しく求め、移植先進国アメリカを学び情報のガラス張り、専門家以外の市民の第三者チェック機構(倫理委員会など)の設置を提案。医療現場の意識改革、対話の重視、患者の自己決定・拒否・撤回の意思を尊重する医療の実現を問題提起したところで制限時間となりました。
 つづいて脳外科医、倫理学者、自ら超反対論者を名乗る心臓内科医がそれぞれに慎重、反対論を展開。そして移植医らからは移植を必要とする患者数や腎移植3年生存率73%の有効性、代替手段のない現実と世界的な現状、将来的展望などがスライドで示され、移植でしか生きられない患者のために「なぜ、やってはいけないのか?」という叫びにも似た声があがり会場はシーン。さいごに「医学は永遠に未完成。医療倫理にのっとり患者側に立って“人を励ます仕事”に取り組み、とりあえずは手持ちの武器で闘わせいただきたい」と、特別発言でセレモニーの幕が閉じました。

※US腎問題 1992年末から95年5月にかけて、米国の臓器移植ネットワーク「UNOS」から、米国で使われなかった腎臓が日本に運ばれ、東京女子医大を中心に十数名に移植が行われた。輸入された腎臓(US腎)の感染や日本腎臓移植ネットワークを経由しなかったことを含め問題になった。

家族の忖度は患者の自己決定の否定

 私は、決して移植医療を否定する立場ではありません。“その人の選択”を他人の私かとやかく言うべきでない、というのが基本的な私の考えです。腎臓透析にみられる「人工臓器」を見ても、医療における日進月歩の「実験」としての取り組みは必須だと思っています。
 ただ私が性急な立法化に危惧の念を抱き、こだわり続けていることは、法案のなかのとくに「家族の忖度」の問題です。脳死を認めるか否か、臓器提供を認めるか否か、死亡した本人の生前の意思が書面によって確認できない場合でも、遺族さえ承諾すれば臓器摘出が可能になると規定している点について、です。本人の日頃からの言動を推測したうえで「提供するか、しないか」を、遺族の意思で決められてしまうことは、何よりも「患者の自己決定」の否定につながり、これまでCOMLが主張してきたことの後退にほかなりません。
 しかも「家族」についての規定もありません。ターミナルの場面で日頃は縁遠い、権威を持った親戚が妙に取り仕切る話はよく耳にしますが、そうした家族・遺族がほんとうに本人の生前の意思を理解して代行してくれるものなのでしょうか。またそのうえに、かつての家制度を準拠するような古い価値観の押しつけが感じられてならないのです。
 それぞれの立場でそれぞれに、考え方や意見が違っていることは当然。人生観や価値観、死生観、宗教や哲学などを押しつけ合うことは、決してあってはならないことです。移植医療は自律性と社会的倫理が鋭く求められる問題です。患者が主役の座を守るためにも判断や決定を医療側にゆだねるだけでなく、私たち一人ひとりがいま一度賛否両論の意見にしっかり耳を傾け、「私ならどうしたいか?」をジックリと考え、“意思”を持つ必要に迫られています。