辻本好子のうちでのこづち

No.009

(会報誌 1995年7月15日号 No.59 掲載)

重度の障害とともに生きるひとりの女性
“楽天家とは哲学なり”

 5月30日の夕刊に載った、ほとんど見過ごしてしまいそうな記事(※)。一、二審で13年余、最高裁上告から判決まで約3年。「上の二人が黄疸だったから、出産前に何度も先生に頼んでいた」にもかかわらず核黄疸となり、脳性麻庫で重度の障害を負ってしまった。「真実を知りたい」と願い続けてきた両親の思いが、ようやく最高裁で認められた喜びは、とくに介護に明け暮れる母親にとっては何にも代えがたいものだったと思います。

※記事の概要 出生直後に重い黄疸にかかり、後遺症で脳性マヒになった大阪府茨木市の女性(21歳)と両親が、通常以上の黄疸症状があったにもかかわらず退院させた産婦人科医師に過失があったなどとして、医師を相手取り、約9600万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決があった。最高裁第二小法廷は「医師は一般的な注意を与えたのみで退院させており、不適切だった」などとして、女性らの控訴を棄却した二審・大阪高裁判決を破棄し、大阪高裁に差し戻した。

 患者の訴えがはぐらかされ、ぞんざいに扱われた。そして、ほんのわずかなミスやちょっとした偶然が裏目になって、思わぬ障害。あってはならない結果が生じ「どうにも納得できない……」。こうした不信感に陥った患者の声は、今もCOMLに届きます。因果関係を肯定し、さらに審理を尽くさせるために高等裁判所に差し戻した、このたびの最高裁の判断が、医療現場の説明義務に拍車をかけてくれるといいのですが……。

N代ちゃんとの出会い

 つごう17年間にわたる裁判闘争の裏側には、当然ながら重度の障害と共に生きる21歳のひとりの女性の人生があります。この逆転判決の知らせを受けたとき、私は「ヤッタァ!」と叫びたくなるような喜びと「いったい、いつになったら終わるの?」というやるせない気持ちを同時に味わい、たまらなくN代ちゃんに会いたくなりました。
 私が初めてN代ちゃんに会ったのは5年前。正直なところ、当初は何とか力になってあげたいという不遜なまでの高見の気持ちが、少なからず私の中にあったように思います。ところが親子ほどの年齢差を超え、いまでは大切なお友達。彼女からは「楽天家とは哲学なり」を教えられ、彼女との会話を通して生き方そのものをみつめ直す機会を与えられています。
 理由がないと動こうとしない単に忙しがり屋の私の心を見透かして、これまでにも「施設の友達に紹介したい」と学園に招いてくれたり、「ハタチの記念に絵本を自費出版したいので手伝ってほしい」と巧みな口実を作っては私を引き寄せてくれました。また落ち込みのまっ只中に、タイミングよく母親が口述筆記した男の子のような文章の手紙やハガキが届き、何度も私の気持ちを引き立たせてくれたこともありました。

マンガ、宗教書、チューハイ、カラオケ、そして……

 約束の日。数えきれないほどのぬいぐるみに囲まれたベッドの横で、車椅子のN代ちゃんが私を迎えてくれました。相変わらず部屋の壁には派手なアニメの大きなポスターをベタベタと貼って、「年甲斐もない」と笑ってしまうような可愛らしいグッズが棚の上に所狭しと並んでいます。父親が工夫した書見台のついた書庫には、マンガの単行本と一緒に心理学の専門書、梅原猛や水上勉の宗教書が並んでいます。中でも宝物のような存在は、古本屋で見つけ「安くしてもらっちゃった」という『仏教大辞典』。無学な私には難しすぎて……と、代読役を“仰せつかる”母親の悩みは、ますます深まるばかりのようです。
 最近はチューハイに凝ってるとかで、私の手土産のケーキには目をくれようともしてくれません。お酒を飲んでいるときは身体中の緊張がゆるんで「とても楽になるから」と、いたずらっぽく笑います。いま何よりの楽しみは、気の合う施設の先生とカラオケヘ出掛けること。夜中の“ご帰還”で「この子には、いつもハラハラさせられどおし」と嘆きながらも、母親はガッシリとN代ちゃんの支援者と同伴者の役割を引き受けているようです。
 当初はなかなか聞き取れなかった彼女の言葉が、気持ちを許してくれるごとに緊張がとれてスムーズになり、いまでは母親の通訳なしで二人だけの密かな会話も楽しめるようになっています。「コーヒーお代わり!15分だけ入ってこないで」と“母親払い”をして、急に真剣な表情になったかと思うと家族が優しすぎることの悩みを私に訴えます。あまりに急なことにたじろぎ、何を答えるべきかと言葉を失ってしまいました。胸の詰まりそうな思いをふるい立たせ、頼まれて優しくしているわけじゃない。そんなふうに思ってしまうのは、優しくしたいと思う周りの気持ちに対して「失礼でしょ!」と、あえて厳しい言葉を返しました。

けむりになりたい……
けむり

けむりには命がある
どこまでか知らないが
空に上がってフッと消える
それまでが寿命なのか
私はけむりですらない
私の命は何なのだろう
私はけむりになりたい……
(N代ちゃん作)

 利発でつねに前向きの彼女は、障害者“らしさ”ばかりが要求されがちな環境の中、口癖の「ジョーダンじゃないヨ」と自らを勇気づけ、一方で『けむりにもなれない』自分を持て余してもいるようです。結局、裁判については多くを語ろうとしませんでした。帰り間際、私の耳元でさりげなく「暗く書かないでネ」。あくまでも天真爛漫に振る舞おうとする、N代ちゃんの家族への思いやりにほかなりません。私は涙ぐんでしまいそうな気持ちを悟られまいと、ただただ鈍感を装うことに精一杯でした。
 「オバチャン、私ね……つくづく中途半端な障害じゃなくて良かったと思ってる。だって、これだけ重度なら誰も私に期待しない。でも、もし中途半端だったら周りだってもっと期待するだろうし、私もガンバラナクチャって思わなきゃいけない……」。諦めなのか、それとも開き直りなのか。健常者の気持ちを見透かしたような厳しい言葉に、私はただただ、たじろぐばかりでした。

 筋硬直で腕が脱臼したりすると、両親に押さえてもらって「そのままグッと押してっ!!」と指示して治してしまうN代ちゃん。私の腰痛を案じながらも「いまみたいな(余裕のない)生活をしてたら(からだが)バラバラに壊れちゃうよ。ポキリと折れるだけなら副木で接げるけど……もっと自分のからだや骨の仕組みを勉強しなさい」と厳しいオコトバ。これぐらい言わないと「オバチャンには通じない」と、しっかり見透かされています。いやはや何とも鋭い観察力、マイッタ、マイッタと尻尾を巻き巻き帰ってきた次第です。