番外・COML史「賢い患者」

第6回

(『ツ・ナ・ガ・ル』2015年冬号 掲載)

アメリカで出会った患者参画の医学教育

 1992年2月、COMLのスタッフとなったとき、COMLはまだ誕生して1年半に満たない状態で、活動内容を紹介するリーフレットすら作成できていませんでした。
 私が1年半にわたる入退院生活にピリオドを打った1月下旬、COML創始者である故・辻本好子はアメリカにいました。日本医師会の生涯学習ビデオを制作する岩波映画の女性監督のお誘いでアメリカ取材に同行し、アメリカの医療機関や医学教育の現場を見学する機会をいただいていたのです。
 実は、このアメリカ取材旅行はCOMLにとって大切な活動を始めるきっかけになりました。現在、医学部、歯学部、薬学部で4年生に実施されているOSCE(オスキー:客観的臨床能力試験)の医療面接の相手役として知られている模擬患者の活動です。医学部・歯学部で義務化されたのは2005年ですから、それを10年以上さかのぼり、1992年から私たちは模擬患者の活動に着手したのですが、それはこのアメリカ取材旅行に端を発しています。
 辻本が見学してきたさまざまな現場の中に、ニューヨークのマウントサイナイ医科大学というメディカル・スクールがありました。そこでは、模擬診察室が設えられていて、医学生と模擬患者が模擬診察をおこないます。その様子は録画され、一連の模擬診察の後、コミュニケーションの教育者を交えて映像を見ながら振り返りをおこなうのです。その際、模擬患者は医学生の説明や対応について凛とした表情でフィードバックしていたのだそうです。そのメディカル・スクールで模擬患者に従事していたのは、ブロードウェイの俳優の卵。欧米人は日本人に比べて身体表現が豊かなため、少々オーバーなアクションを要求されるため、俳優の卵が使われていたようです。しかし、俳優の卵と雖も、医学には素人です。一般人が医学教育に参画している――そのことにいたく感動した辻本は、「COMLでぜひこの活動をおこないたい!!」そう強く胸に秘めて帰国しました。成田から東京経由で新幹線で帰阪してきた辻本を新大阪駅に出迎えた私が真っ先に聞かされた話も、まさに模擬患者のことでした。
 そこで辻本は、岩波映画監督と引き合わせてくださった大阪大学医学部名誉教授の故・中川米造氏を訪ね、アメリカ取材旅行の報告かたがた、模擬患者に感動したこと、COMLで実現したいことを一生懸命語りました。すると「私の弟子で、医学教育や模擬患者に関心を持っている医師がいるから紹介するよ。一緒に取り組んでみたらどうか」と、現・岐阜大学医学部医学教育開発研究センター長の藤崎和彦氏を紹介してくださったのです。そして、1992年秋から私を含めて模擬患者初期メンバー4名と藤崎氏と方法や設定について模索を始めました。そして、1993年3月に関心のある医学生に声をかけておこなった「医学生のための模擬患者による春休みセミナー」が記念すべき第1回目のセミナー開催となりました。
 その後、同年秋には朝日放送の(当時)ニュースステーションの特集で取りあげられ、翌1994年には朝日新聞の全国版、さまざまな医療系雑誌でも紹介され、「私もやってみたい」という模擬患者候補が増えました。更には、「模擬患者を使った授業や講義を」という依頼も届くようになり、北海道から九州まで模擬患者を派遣するようになり、医学教育の中でも少しずつ認知度が上がってきました。
 というのも、私たちが模擬患者を始めた当初は、医学部の教授の多くは「患者への対応方法なんて教えるものではない。先輩の背中を見て学ぶものだ」と豪語されていた時代ですから……。しかし、偏差値が高い理由だけで医学部に入学する学生、異なる年代とコミュニケーションを取ったことのない学生が増えるにつれ、やはり医療面接も基本を教えなきゃいけないという機運が高まりました。それに、模擬患者を国家試験などに採り入れることが国際的な風潮になったことも大きかったと思います。
 ちなみに、COMLの模擬患者初期メンバー4名の中に辻本は入っていません。「自分以外の人間」になれない性質なのです(笑)。模擬患者は背景を詳しく設定しますが、基本的にせりふはなく、すべてアドリブです(OSCEの標準的模擬患者はある程度受け答えが決まっていますが)。最初の春休みセミナーで模擬患者として医学生の医療面接を受けていた私が、医学生から「お酒は飲みますか?」と問われて、「ええ、つきあい程度に」と答えた瞬間、辻本が大声で「嘘!!」と叫んだのです。設定通り演じていた私は冷や汗噴出、辻本は大ヒンシュク(笑)。それ以来「辻本さんに模擬患者は無理」と周りから変な太鼓判を押されてしまったのでした。