番外・COML史「賢い患者」

第5回

(『ツ・ナ・ガ・ル』2015年秋号 掲載)

私を生き抜く

 1991年10月にCOML創始者の辻本好子と出会って以来、会って話すたびに意気投合し、急速に関係性が構築されていきました。頼まれた会報誌への闘病記も『遊病日記』と題して、12月に最後の化学療法を受けるために入院した際もワープロを病室に持ち込み、時を忘れて書き綴りました。
 しかし一方で、化学療法の副作用による身体へのダメージを感じ始めていました。手術時の抗がん剤の腹腔内注入を除けば8回目となった化学療法の後、「これ以上治療を受けると、取り返しがつかない副作用が生じるような気がする」という身体の声が聞こえた気がしたのです。というのも、当時の担当医はかなりのスピードで抗がん剤入りの点滴を滴下するので、嘔吐の副作用は半端なく襲いかかりました。また当時私が受けた化学療法は、導尿をして寝たきりになるのですが、抗がん剤を入れた翌日には導尿のチューブは真っ赤で、血尿がしばらく続きました。そのため、回を重ねるたびに腎機能が悪化し、元に戻るギリギリのところまできていました。
 また、ようやくベッド上に座ることができるぐらいに嘔吐・悪心が治まりかけた8回目の治療開始1週間後、ようやくトイレに行くことができたのはいいのですが、激しい水様便の下痢に見舞われ、血圧が一気に低下してしまいました。何とかトイレ内のナースコールを押すことはできたものの、その後、視界が真っ暗になり、手足は電流が走っているかのように痺れていました。トイレに駆け込んできたナースが車椅子に移乗させてベッドまで運んでくれたのですが、自力では何もできません。恐らく、ナースから見れば完全に意識消失状態に見えたのでしょう。しかし、私の耳だけは鮮明に聴こえていました。ナースが血圧を測っていることが耳からの情報でわかり、やがて「ようやく測れるまでに血圧が回復……。上が60」と誰かに伝えていた声を今でも覚えています。その後、薄らと視界に光が入り、手足の感覚もゆっくり戻ってきました。そのような経験から、意識がないように見えていても、聴力はかなり維持されていることを実感したのです。これは医療者にはぜひとも知っていただきたい経験者ならではの情報だと思っています。
 余談ですが、私はもう一つ不思議な経験をしています。卵巣が破裂して、6〜7時間後に受けた手術の後の麻酔から覚めたときの体験です。
 ふと気づくと、横たわっている私自身を上から私が静かに見下ろしていました。その空間はとても神聖な空気に満ちていて、何よりも私の感情は“無”でした。恐怖も不安も喜びも一切ない“無”の状態です。そして、次の瞬間、私が私の身体の中に入り、視線の先を見ていました。そこには天井も壁も床も、遮るものが何一つない不思議な空間でした。そして、次に右の肩を起点にして右腕に合体するかのように右腕の感覚が戻りました。「あ、右手が戻った。あ、左手が戻った」。そして、足も同じように「右足が戻った、左足が戻った。これで全部戻った」と思ったときに、再び覚醒して、病室の中にいたのです。神聖だったのはそこまでで、その後は激しい嘔吐に襲われる苦痛が始まったわけですが……。
 この経験を通して、私は「死とは感情がなくなること」と解釈するようになりました。破裂して6〜7時間経った手術直前のときも、不安や恐怖はなく、私のすべてのエネルギーはただただ呼吸することに使っていたように思います。つまり、不安や恐怖があるというのはまだ余裕がある状態で、ギリギリのところにくると感情は入り込む余地がなくなり、更に肉体から魂が離れると感情は消えるのではないかと自分の経験を通して考えています。もちろん普遍化するだけの根拠のない、個人的な経験に基づく意見です。しかし、このような体験ができたことも、私の人生においてはとても大きな意味を占めています。まして、20代半での出来事ですから、その後の人生の意味を考えるうえでも、何とも幸せな経験だったと思います。
 話を戻しますと、卵巣という附属器以外は頑丈にできているお陰で、強力な抗がん剤の副作用にも打ち勝つことができてきました。しかし、8回目を終えて身体の声に敏感になっていた私は、「いくら何でも、もう限界」と判断しました。そこで、担当医に9回目の治療直前、自分の意志で9回目の化学療法を受けずに退院したいこと、今後は別の病院で経過観察すること、1年半のおつきあいで伝えておきたかったことを冷静に伝え、治療にピリオドを打ちました。担当医との最後の話し合いは哀しいくらいにがっかりする内容でしたが、見切りをつける機会にはなりました。そして、「さぁ、これから私を生き抜くぞ」といった前向きな気持ちでスタートを切り、1992年2月、COMLのスタッフとして歩みを始めたのです。