番外・COML史「賢い患者」

第4回

(『ツ・ナ・ガ・ル』2015年春・夏号 掲載)

新たなスタート

 前回までの3回で記してきたように、25年前の医療は閉鎖的で、すべての主導権は医師にありました。そのようななか、抗がん剤治療を受けるために1年半にわたって入退院を繰り返し、入院日数は300日を超えました。強力な制吐剤もなかった時代の抗がん剤治療は、一度受けると1週間で体重が5㎏も減少するほど過酷でした。それでも持ち前の体力が幸いして元気を取り戻し続け、「あれだけの治療を受けて、そこまで元気になった患者さんは見たことがない」と医療者によく言われました。退院すると、つぎの入院治療に向けて費用を稼がないといけないので、昼も夜もアルバイトをしていました。夜のバイトは、学生時代から続けていた家庭教師ですが(笑)。
 今でも印象深く覚えているのは、コンビニに置かれていた求人誌の設置状況をリサーチする昼のアルバイト。期間限定の私にはうってつけのバイトで、健脚を生かして殆ど交通機関を使わず、1日30㎞以上を歩いて調査していました。浮いた交通費を収入にしていたのです。今から考えると、休薬期間の退院中に無謀とも思える行動です。自宅がある大阪府内はもちろん、兵庫県、京都府も歩き尽くしました。歩くことで生きている実感を得ていたのかもしれません。また、各地で出会う何気ない自然の姿に心震わす感動を覚えることもしばしばありました。そして何よりも、一度入院すると約3ヵ月は行動範囲が病院内に制限されることからの解放感を存分に味わいたかったのかもしれません。卵巣がんの治療中でも、私のすべてが病人ではないというつっぱりも少なからずあったように感じます。
 そのような治療を主体にした生活を送っていた1年半。その後半にあたる1991年秋、朝日新聞に「COML発足1年 患者の権利普及に力」という記事が載りました。その少し前から、COMLというグループが患者塾というミニセミナーを開いていることは新聞の情報コーナーで知っていました。しかし、セミナーの中身をよく理解しないままに、「患者としての行動を教わる必要性は感じない」とあまり関心を持っていませんでした。しかし、発足1年の記事は、COML創始者の辻本好子のインタビューが中心で、とても惹かれました。生意気ながら「同じようなことを考えていた人がいるんだ」と感じ、とても嬉しくなりました。そこで「この人に私の思いのたけをすべてぶつけてみて、どんなふうに受け止めてもらえるか知りたい」と思ったのです。ただ、かなり大きな記事だったので、反響が殺到していることは容易に察しがつきます。多くの人に紛れて、きちんと向き合ってもらえないのは残念なので、少しほとぼりが冷めたころに、手紙を送ってみることにしました。家庭教師で見ていた中学生の中間試験が迫っていて忙しかったこともあり、一段落してからじっくり時間をかけて手紙を書きたかったことも理由の一つでした。
 そうして、10月下旬、新聞記事を読んでの感想に加え、病気の経過、病気に対する私の受け止め方や考え、医療に対して感じていることなどを目一杯認めた手紙を書き、辻本に送りました。その気持ちの高まりが少し鎮まった数日後、自宅に電話がかかってきました。数日間出張で事務所を留守にしていて、手紙に目を通すのが遅くなったので、取り急ぎ電話をかけたということでした。電話に出た直後、あまりに美しい標準語に、思わず正座をしたことを今でも思い出します。辻本からは「かなり多くのがん患者さんの話を聴いた経験があるけれど、こんなに明るいがん患者さんは初めて。ぜひ会って話をしたい。明日、患者塾というミニセミナーを開くのですが、いらっしゃいませんか」とお誘いを受けました。実は既に予定があったのですが、何とかやりくりをして、指定された時間に会場を訪ねることにしました。
 今でも忘れられませんが、私が最初に辻本と相対したときの印象は、「初めて会った気がしない」でした。そして、患者塾の後、COMLを立ち上げた経緯を詳しく聴く中で、「ほかの人が同じ話をしたら『すごいな』と思うだろうけれど、この人なら当たり前だ」と強く感じました。この日をきっかけに事務所を何度か訪ね、1991年12月、最後に3回の抗がん剤治療を受けるため入院生活に入りました。そして、初めてお見舞いに来てくれた辻本から「大事な話があるの。治療が一段落したら、COMLに入って一緒に活動しない?」と誘われ、「この人となら真剣に生きられる」と思った直感で二つ返事したことが私のCOMLで生きるスタートとなりました。