番外・COML史「賢い患者」

第3回

(『ツ・ナ・ガ・ル』2014年秋・冬号 掲載)

自分を知る“幸せ”

 卵巣がんと知り得た後も、自分のことを知るための“闘い”は続きました。「私とまったく関係がない人でも、ナースの資格があってこの病院に採用されると、その日から私の情報を手に入れることができる。私は本人なのに、どれだけ頼んでも自分の情報をすべて手に入れることができないなんて、どう考えてもおかしい」と常に思っていました。しかし、だからといってドクターと喧嘩すれば解決するという問題でもありません。ともかくドクターやナースとやりとりをするときは、必ずお互い笑顔で終わる会話になるよう努力して、医療者に「伝えてよかった」「話してよかった」と思ってもらうことで少しずつ必要な情報を積み重ねていきました。
 ところが、発病から8か月後、残っていた右の卵巣に再発が見つかりました。退院中で、定期的な外来受診でエコー検査をしていたときのドクターの顔色の変化で、すぐに異常を察知しました。しかし、ドクターは「大きくなってきているから、手術しましょう」とだけ言って、すぐさま手術予定や、それに向けての検査のオーダーを入れていきます。もし、再発だとしたら、もう悠長なことは言っていられません。それまでの自己学習で、当時の卵巣がんの予後の厳しさは自覚していただけに、さすがに“死”がグッと近づいた気持ちになりました。そんな大切な局面でも、まだ隠されるのか……。情けなさと怒りと、言いようのない悔しさに胸が張り裂けそうでした。
 でも、ドクターに情報提供を期待するのは、この段階では無理と判断。そこで、術前検査のため他科を受診したときに、ドクターの机の上に置かれている院内紹介状を読む機会を狙いました。それは意外に簡単で、消化器内科を受診した際にドクターの机の上に無造作に置かれている紹介状が目に入りました。
 「Ov. Ca. Recurrence」――Ov.は卵巣、Ca.はがんの略であることは、それまでの経験で理解していました。Recurrenceは何か繰り返すような意味の単語だった気がしたのですが、医学的に使われる際の用語としては知識がなく、診察室を出るなりメモに書き留めて帰宅後に調べました。それは、やはり「再発」を意味する医学用語だったのです。
 そこで、次回婦人科を受診した際、私から「他科を受診したときに、先生の書いた紹介状が目に入りました。自分の今の状況は理解できているので、もう隠し事なく説明してください」と述べました。それを聞いたドクターは真っ青な表情で絶句し、意を決したように「だから、あなたに説明するのは苦痛なのよ」と金切り声を上げたのです。そして「手術の予定だったけれど、化学療法に方針を変更する予定なので、上司と相談します」と言い出しました。方針を変更する理由を問うても、何ら納得できる説明は返ってきませんでした。そこで、私が「治療方針を話し合うなら、今回は私も同席させてもらいたい」と頼みましたが、「患者であるあなたに同席なんてとんでもない。こちらの決めた方針に従ってもらいます」と言い放たれました。そして、治療方針変更の明確な説明がないままに、手術は中止、抗がん剤治療を継続しておこなうことになったのです。
 予想していた以上に早い段階での再発。ただ、私のなかに「なぜ私がこんな病気に?」という思いはまったくありませんでした。むしろ、「10代のころから、いつ何が起きるかわからない予感があったのは、こういうことだったのか」という妙な納得があったことは確かです。卵巣がんになるまで大きな病気はしたことがないのはもちろん、どちらかと言うと体力には人一倍自信がある健康優良児のような人間でした。でも、なぜか10代半ばから「今は元気でも、人生、いつ何が起きるかわからない。突然終止符を打たないといけない局面がきたときに、後悔だけはしない生き方をしたい」――そう強く願って、できる限り実現してきました。それが25歳を目前に卵巣がんになり、3年生きる確率は2割しかないという状況のなか、「どう生きてきたかを最も知っているのは自分自身。他者の評価より、最後の瞬間に振り返って自分自身が満足できるように生きる」ことが揺るがない私の目標となったのです。
 そして、もう一つ得た大きなプレゼントは、どんな出来事も100%マイナスではないと実感できたということです。病気、ましてやがんと言えば、一般的には最悪の状況と思われるかもしれません。しかし、卵巣がんにならなければ経験できなかったこと、知り得なかったことがいくつもありました。なかでも20代半ばで「今を生きるいのちの素晴らしさ」を震えるほどに実感できたことは、贅沢な経験でした。その後に展開する人生を変える大きな出逢いも含め、生まれて初めて“幸せ”と思えたのが、卵巣がんになって得たことだったのです。