番外・COML史「賢い患者」

第2回

(『ツ・ナ・ガ・ル』2014年夏号 掲載)

賢い患者への“序章”

 破裂による卵巣がんの緊急手術だったため、私のステージでは子宮と両側の卵巣・卵管すべてを摘出すべきところ、とりあえずがん化している左卵巣を摘出するだけで精一杯だったようです。それよりも、破裂から6〜7時間経ったお腹のなかはグチャグチャで、癒着を剥がすのに苦労したと、手術で補助を務めたドクターから後日聞かされました。そのため、手術後10日目ぐらいに再手術が予定されていたそうです。ところが、お腹に直接入れた抗がん剤の副作用で白血球の数が減り始め、再手術をおこなうことはできませんでした。これらはすべて後から知った事実ですが、私には何の説明もないまま、主治医の方針変更で、術後3週間後に第1回目の抗がん剤治療(化学療法)がおこなわれました。私には「癒着止めの点滴」という怪しげな説明で……。
 私が当時受けた化学療法は、シスプラチン、アドリアマイシン、シクロフォスファミドという3種類の抗がん剤を一度に入れ、月1回を3ヵ月繰り返して、その後3ヵ月の休薬期間。それを3回繰り返すというものでした。特に腎臓にダメージを与える可能性が高かったため、化学療法時には抗がん剤注入以外に大量の水分補給のための点滴が続きました。また、当時の化学療法の副作用で強烈なのは、何と言っても嘔吐です。この辛さと言ったら、ありません。何度か化学療法を続けるうちに、点滴を見ただけで激しい嘔吐が始まるぐらい、患者にとっては過酷な治療でした。
 「癒着止め」という名目で始まった1回目の化学療法も、何本かの生理食塩水の点滴の後、3種類の抗がん剤を入れた途端から激しい嘔吐に見舞われました。「やはり……、これは抗がん剤に違いない」と、私は確信しました。しかし、まだ明らかな確証を得たわけではありません。あくまで私の推論。であれば、まだ疑いを明らかにするのは時期尚早とグッと我慢し、“その時”を待つことにしました。
 当時はいまのように外来化学療法はなく、入院治療です。白血球数が下がれば、仰々しい「面会謝絶」の札がつく病室に隔離されました。なので、化学療法が始まると、最低3ヵ月は入院生活が続きました。そのため、1回目の化学療法が終わっても、次の治療に向けて入院生活が続いていました。
 最初の化学療法から2〜3週間が経ったころでしょうか。副作用によるダメージからも復調して、病棟の浴室でシャワーを浴びていたときです。髪をシャンプーしていると、手に経験したことがない独特の違和感を覚えました。さすがに、このときは頭が一瞬真っ白になり、すぐに手を見ることはできませんでした。「脱毛……?」。恐る恐る手を降ろしてみると、指や掌の皮膚が見えないぐらい、抜けた髪が絡みついていたのです。次の瞬間、「やはり。ここではっきりさせるしかない」と気持ちが静かな決意に変わりました。
 浴室から出ると、私はまっすぐナースステーションに行き、ナースに脱毛が始まったこと、点滴の副作用であると考えていること、治療のためにどんな薬を使用しているのか知りたいことを伝えました。「破裂して手術を受けて以来、一度もきちんとした説明を受けていない。きちんと私の病名や病状を一から説明してもらいたい」と明確に意思表示しました。ナースの殆どは私の性格を理解してくれていました。なかには私が頼んだわけでもないのに、「山口さんには本当のことを伝えるべき。なぜ本人が希望しているのに伝えないのですか」と主治医と喧嘩までしてくれたナースもいたそうです。しかし、主治医が頑なに真実を告げることに反対するので、困っていたようです。そこで、別のドクターに相談したところ、そのドクターも私には伝えたほうがいいと考えていたらしく、「私は主治医ではないので積極的に伝えることはできない。でも、聞かれたことには答える」とナースから伝言が届きました。そして、回診時にいつもなら立ったまま会話をするところ、椅子に腰かけられたのを見て「聞いていい合図」と受け止め、知りたかった内容の確認をしました。
 そうして、卵巣がんであること、ステージは1cだけれど、破裂したことできちんとした抗がん剤治療は必要なこと、手術のときの様子などを知ることができました。それを機に外出許可をもらい、大型書店に行って1万円以上する専門書を3冊ぐらい購入し、人目を忍んで卵巣がんの勉強を始めました。一度隠されると、説明に対して疑いの目を持ってしまう。それなら、まずはしっかりした基礎知識を身につけようと考えたのです。