番外・COML史「賢い患者」

第1回

(『ツ・ナ・ガ・ル』2014年春号 掲載)

自分のことを知る“闘い”の始まり

 私が現在、理事長を務めているNPO法人ささえあい医療人権センターCOML(以下、COML)は、1990年に産声をあげました。1990年というと、ほとんどの患者は“受け身”で“お任せ”に甘んじていました。「医療のように専門性の高いことは、どうせ説明を受けたって理解できない」「患者なんて、どうせ俎板の上の鯉だから」と諦め、そもそも「わからないことを聞いていいかどうかすらわからない」と言う患者さんもいました。
 そんな時代のことですから、「患者側で活動している団体」と言えば、医療現場を糾弾したり、医療者に過剰な要求をしたりする団体ではないかと医療者から構えられることが少なくありませんでした。しかし、COMLの活動の原点はそうではなく、患者自らの姿勢を見直そうという提案だったのです。病気は時に、いのちや人生をも左右することがあります。そんな大切なことをたとえ専門家といえども“お任せ”していていいのだろうか。もっと私たち患者が自立して、主体的に医療に参加する「賢い患者になりましょう」と呼びかけたのです。そのためには、まず私たち一人ひとりが「いのちの主人公」「からだの責任者」としての自覚を持つことが第一歩とお伝えしてきました。
 そのようなCOMLを立ち上げたのは、辻本好子という1948年生まれの女性でした。私はその辻本と「COML発足1年」という新聞記事で出会いました。人生を変える大きな出会いをし、20年間二人三脚で歩んできましたが、残念ながら辻本は2011年、62歳で胃がんでこの世を去りました。「COMLが継続するのは当たり前だからね。必ず発展させてね」という言葉を遺して……。
 そもそも私自身が医療と深くかかわるきっかけになったのは、いみじくもCOMLがスタートした同じ年の同じ月に25歳間近で卵巣がんを発症したことです。当時は、いわゆる“がん告知”は一般的ではありませんでした。私の場合、腹膜炎と不正出血で婦人科外来を受診したのですが、10センチ大に腫れあがった卵巣が子宮の裏側に入り込み、血液検査では炎症反応が強く出ていました。もちろん、その段階で医師はさまざまな所見から卵巣がんを疑っていたようですが、まったくそのような説明がないまま、即日入院となりました。そしてさまざまな検査が進められ、手術の予定が決まりました。
 ところが、多くの検査で刺激されたのか、手術日を待たず卵巣が破裂してしまったのです。しかも、破裂による激痛に襲われたのは日曜日の早朝でした。破裂の可能性がある患者がいると医療者間の連絡がなかったため、麻酔科医と連絡が取れず、手術が開始されるまで6〜7時間を要しました。その間、体内にばらまかれてしまったがんをやっつけるために、開腹手術で卵巣がんを摘出すると同時に、お腹のなかを洗浄し、直接強力な抗がん剤も注入されました。そのため、病室で麻酔から覚めた私に待っていたのは、嘔吐、嘔吐の連続だったのです。当時は、今のように強力な制吐剤がなかったために、抗がん剤による最も辛い副作用は嘔吐でした。
 ところが、そのような過酷な術後にもかかわらず、医師や看護師、そして両親に至るまで、「いったい何が起きたのか」「どのような病気だったのか」の説明は一切してくれません。その様子から、「悪い病気に違いない」ことは容易に察することができました。「だとすれば下手に聞けば、更に情報が得られなくなる。慎重に時期を選ぶしかない」と覚悟を決めました。後から知ったことですが、当時の主治医は両親に「この後3年生きる確率は2割ありませんから覚悟してください。20代半ばで卵巣がん、しかも残りわずかな人生と知れば、必ず精神状態はボロボロになります。私は何があっても言いませんから、ご両親も本当のことは決して言わないでください」と固く箝口令を敷いたのだそうです。
 しかし、私にはそれが何よりも辛いことでした。自分に起きている真実を当人が知り得ないなんて、あり得ないこと。幼い頃から自分のことは自分で決めたい、他人の決めたことに従うのは大嫌いという性格だったので、私の眼には医療界が信じられないぐらい閉鎖的な世界だと映りました。そこから、自分のことを知るための静かな“闘い”が始まったのです。